住吉公園150年記念事業
「住吉公園歴史探訪」第3号
歴史探訪 第3号
発行日:2019年6月1日
(季刊:3月・6月・9月・12月発行)

明治6年に開設された大阪府営住吉公園は、2023年に開設150年を迎えます。「住吉公園 歴史探訪」では、住吉公園150年記念事業として住吉公園の歴史をたどり、開設当初からどのように利用され、どのような変遷を遂げてきたか、悠久の歴史に想いを馳せてみたいと思います。

大阪築港と住吉公園

我が国の主要国際港である大阪は、古代の住吉津、難波津に端を発しますが、近代港としては、明治元年(慶応四年、1868)7月15日の開港になります。当時の港は、安治川の河口をさかのぼった場所で、海外貿易の大型船には不向きでした。その面目と機能を一新するため、大規模な整備を目指したのが大阪築港事業です。

明治30年 大阪築港成就祈願祭 出典:『御祭草紙』
明治30年 大阪築港成就祈願祭 出典:『御祭草紙』

大阪築港の立役者は西村捨三(1843―1908)でした。大阪府知事や国務大臣を歴任した後、明治三十年(1897)大阪築港事務所の初代所長に就任しました。同年10月17日の大阪築港起工式では、古代より港湾の守護神として崇められる住吉大社において祈願祭を執行、所長の捨三は衣冠装束の姿に扮して大々的に参拝行列をおこなったことが話題になりました。捨三を評して〝衣冠の侠客〟と称するのはこの祈願祭に由来します。

起工式の当日、住吉公園西方の松原で「禁裏御祈祷場」の石標二基が偶然にも再発見されました。これは江戸末期、孝明天皇の勅命によって国難防護・天下泰平の臨時祈願祭を執行した「住吉の浜祈祷」ゆかりのものでした。彼はこの浜祈祷に着想を得て、神功皇后が住吉浜に市を立てて交易品を売買した宝之市の伝説や、宝船が住吉浦に来訪する謡曲「岩船」の物語にちなんで、明治31年(1898)10月17日には住吉大社の「宝之市神事」を復活させました。伝統の神事を復活させ、なおかつ、大阪港の繁栄を祈るための興行的な発案でした。

西村捨三 氏 出典:『御祭草紙』
西村捨三 氏 出典:『御祭草紙』

往年の宝之市神事は、住吉大社から住吉公園まで神輿が渡御し、南地五花街の芸妓が共に練り歩く華やかで盛大な行列でした。公園内には御旅所が置かれ、神興台や石玉垣は大阪経済界・海運業の重鎮であった尼崎伊三郎の寄進、覆屋など祭場施設は南海鉄道(現・南海電気鉄道)の奉納で、かつての住吉公園で最も賑わった催事になりました。

明治36年(1903)5月、大阪築港工事は第一期竣工となりましたが、それに先立つ2月、捨三は病気療養のため退任していました。粉骨砕身で奔走尽力した結果でしたが、療養の甲斐もなく、明治41年(1908)1月14日に死去しました(享年66歳)。その死を惜しんだ人々は、明治45年(1912)5月、功績をたたえるべく、西村捨三の衣冠姿の銅像顕彰碑が住吉公園の中に建立されました。戦時下の供出(金属等回収令)で失われたため、今日は目にすることが出来ませんが、戦前までは公園の象徴的な存在でした。 (小出英詞)

住吉公園の宝之市神事の様子(明治31年『官幣大社住吉神社宝の市御神事行列の図』)住吉大社蔵
住吉公園の宝之市神事の様子(明治31年『官幣大社住吉神社宝の市御神事行列の図』)住吉大社蔵

住吉公園 宝之市神事御旅所①(紅白生糸を供える斎女) 住吉大社蔵
住吉公園 宝之市神事御旅所①(紅白生糸を供える斎女) 住吉大社蔵

住吉公園 宝之市神事御旅所②(五穀枡を供える市女) 住吉大社蔵
住吉公園 宝之市神事御旅所②(五穀枡を供える市女) 住吉大社蔵

 

湊の変遷

住吉津、河港、居留地から築港へ

大阪湾築港計画実測図 明治27年(1894)
大阪湾築港計画実測図 明治27年(1894)

上の詳細な測量図は、日本の治水と築港に最大の功績を残したオランダからのお雇い技師、デ・レーケの指導に基づき実測され、明治二十七年(一八九四)に刊行されたものです。大阪築港とペアで新淀川の開削を進めるための実測の図で、干潟や田畑、新築の突堤のプランなどリアルな記述や新田開発の時期の記入など、実に表現力豊かな地図の出来栄えに驚きを禁じ得ません。

図中には、古代の住吉津から、近世の運河を河岸とする河港大坂、そして開港に際して、河港導入河川の安治川の口の川口居留地、そしてこうした内港から打って出て外港として開発された天保山、お台場砲台跡の築港開発への動きを矢印で示しました。デ・レーケは明治二十一年(一八八八)に、当時の内務省土木局長・西村捨三に、築港、淀川同時改修を上申するという運命の出会いは、明治二十七年(一八九四)のデ・レーケによる築港計画の策定と、西村の築港事務所長として主宰した明治三十年の住吉公園での起工式につながることになります。(水内俊雄)

 

住吉公園にあった西村捨三翁銅像

住吉公園にかつてあった西村捨三翁 銅像 上田貞治郎 写真コレクション アルバム『東南部』「住吉公園内・西村捨三氏銅像」
住吉公園にかつてあった西村捨三翁 銅像
上田貞治郎 写真コレクション
アルバム『東南部』「住吉公園内・西村捨三氏銅像」

大阪港の功績があった、西村捨三の銅像と顕彰碑は、明治45年(1912)5月に住吉公園内に建造されました。発起人には、当時の大阪商法会議所会頭の土居通夫、近鉄創業に関わった七里清介、大林組創業者の大林芳五郎、朝日新聞社長の村山龍平、毎日新聞社長の本山彦一など財界の名士が名を列ねています。

衣冠姿の銅像原型は津田信夫(鋳金家)、台座は伊藤忠太(建築家)、碑文は西村天囚(大阪朝日新聞主筆、天声人語の命名者)、揮毫は籾山衣洲(台湾日日新報の漢文部主任)といった当代一流の手にかかる立派なものでした。

銅像は昭和の戦時供出(金属類回収令)で失われましたが、当時の碑文を昭和7年(1932)『住吉神社石燈籠調書』(住吉大社所蔵)をもとに翻刻して掲載します。(小出英詞)

〈正面〉

 従三位勲二等西村捨三君銅像記
我国自古敬神成俗苟有功徳於民者立祠崇祀像設剏自西域逮泰西写真術与取材金石酷肖若生於是紀功頌徳往々用像焉近江酔処西邨君嘗大阪府知事者多年創水道興農学敬神祇正風化恵政具挙治蹟不著厥後薫督築港之事積労得疾末幾捐館大阪士人感念弗己立銅像於住吉松林中住吉神蓋君生平所崇敬嘗著延暦朝古衣冠以祭之像即用其装束毫身長稍大正笏而立風神生動観者不覚起敬焉鳴呼君功徳在民像設儼然挙与専祠不異則千載之下雖死猶生也工既竣俾時彦作記時彦以世諠受知於君義不可辞乃叙来由如此若夫事蹟之詳則昭昭乎在史乗不複贅云
明治四十五年五月 多褹 西村時彦 尾山籾山逸書

〈裏面〉

建設発起人
土居通夫 七里清介
奥村善右衛門 大林芳五郎
村山龍平 水上長三郎
本山彦一

〈大意〉

我国は古来より敬神の念あつく、功績あるものを尊敬して崇め祀ってきた。近年では、西欧の写真によって生き写しのごとく像をつくり、その功續をあらわすことができる。

近江酔処と号した西村捨三君は、かつて大阪府知事をつとめ、在任中には水道工事や農業政策をおこない、神々を敬い、正しい志を政治に活かした。功績を一つ一つ挙げればきりがないが、その後の大阪築港事業の取締人として奔走する中、過労によって早く世を去った。大阪の心ある人々は、常に無私であった君の生涯に心を打たれて、銅像を建立することにした。

銅像は、君が日頃崇敬してきた住吉大社にゆかりの住吉公園、その松林の中を設置場所に選んで、かつて築港成就の祈願祭を行った時に着用した衣冠装束の姿を象って、実寸よりも大きな身長で製作した。千年の後も変わらず銅像は立ち続け、見上げる者は必ずや敬意をもって仰ぐことであろう。これは君の功績と徳望がそうさせたのである。

銅像が完成し、私(西村天囚)が文章を書き、世間に喧伝するものだが、どれほど言葉にしても君に対する恩義は述べ尽くせないものである。このような経緯で本文をなしたが、その事蹟の詳細は明らかな忠実であるので、これ以上に余計な言葉はくわえないでおく。

 

上田貞治郎 写真コレクション

20世紀初頭カメラ業界のドンともいわれた旧・上田写真機店の社主・上田貞治郎(1860―1944)は、往時すでに古写真のコレクターとして日本全国名所写真をアルバムに編んでいました。浜寺・諏訪ノ森駅前の上田文庫旧蔵品から戦火と散逸をまぬがれた写真帖20巻をはじめとした研究資料が、大阪市立大学都市研究プラザに寄託されています。当時最先端の築港桟橋に近代船舶の着岸する様子と、明治中期にのみ松島にあったといわれる住吉神社の尻無川御旅所を対比的に配置した含蓄のある構成は『大阪西南部』巻末近くの印象的な頁をなしていました【下】。

尻無川住吉御旅所 築港桟橋尻無川住吉御旅所 築港桟橋

尻無川住吉御旅所 築港桟橋尻無川住吉御旅所 築港桟橋

天保山灯台の頁に添えられた解説文には、改築時の明治27年撮影とあります【下】。(櫻田和也)

天保山燈台、尻無川尻・蛤狩
【写真に添えられた解説文】天保山燈台
天保山は元安治川口の目標の為に天保年間築きしもの。明治4年横浜に在りしものを茲に移し、明治廿七年燈台並びに官舎を改築したる時の撮影なり。築港の進展と共もに現今跡なきに至る。跡なきに至る。

 

住吉公園の原風景を彩る生物たち

―ウノハナとコガタウツギヒメハナバチ―

現在の住吉公園は、大部分が住吉神社の境内で構成されています。そして、この神社は、海に向かった台地にあります。住吉神社が立地している場所に生息する生物として、本誌第二号でカキツバタを取り上げました。

今回は、これに続いて「ウツギ(ウノハナ)」と「コガタウツギヒメハナバチ」を紹介したいと思います。

ウツギの花とコガタウツギヒメハナバチ 大阪市立自然史博物館 学芸員長谷川 匡弘氏 提供
ウツギの花とコガタウツギヒメハナバチ
大阪市立自然史博物館 学芸員長谷川 匡弘氏 提供

神功皇后が、卯年、卯月、卯日に住吉神社をこの地に創建された事から、当神社と「ウツギ(ウノハナ)」は「卯之葉神事」でも判りますように、切っても切れない関係にあります。

旧暦の四月を「卯月」というのは、「ウノハナ」が咲く月だと言われるくらい、日本各地で親しまれた花で、野山の花暦は、桜、藤に次いで卯の花が登場し、季節を代表する花になります。

「ウノハナ(卯の花)」の植物名は「ウツギ(空木)」ですが、これは本来固有名詞ではなく、茎が中空になっている植物一般を示しています。ですから、「ウツギ」の名前をもつ植物は、スイカズラ科のハコネウツギ(箱根空木)やタニウツギ(谷空木)、フジウツギ科のフジウツギ(藤空木)等々、いろいろな科の植物に名前があります。しかし、いまでは「ウツギ」のことを「ウノハナ」と広く呼ばれるようになりました。

さて、肝心の「ウツギ」ですが、以前はユキノシタ科所属でしたが、現在はアジサイなどと共にアジサイ科を形成しています。

出典:「慶長十年摂津国絵図」(西宮市)(https://archives.nishi.or.jp/04_entry.php?mkey=1736)(令和元年6月1日に利用)
出典:「慶長十年摂津国絵図」(西宮市)
(https://archives.nishi.or.jp/04_entry.php?mkey=1736)(令和元年6月1日に利用)

この植物は、日本のいたるところで見られますが、一番よく見られるのが、日当たりの良い崖地となりますので、私などはウノハナやノリウツギを「崖っぷち植物」と呼んでいました。実はこの「崖っぷち」というのが住吉神社の原風景となっていまして、古絵図や国絵図(上の国絵図)にも必ず描かれる特色ですから、この崖を好んだ「ウノハナ」の中に当神社が設立されたと言っても過言ではなく、切っても切れないのは創建当初からだと言えます。

さらに、「ウノハナ」には面白い動物が関係します。それが「ウツギヒメハナバチ」と「コガタウツギヒメハナバチ」になります。このハチ達は、地面に穴を掘って巣を作り、ウノハナの花粉だけを集めて産卵します。そして、幼虫は、ウノハナの花粉しか食べないと言われています。「ウツギヒメハナバチ」の営巣名所としては、兵庫の楽音寺(天然記念物)などが有名ですが、かつてはウノハナの群落のある所ではどこにもいたようです。しかし、都市化などでウノハナが減少した現在の大阪市内には、もうこの虫達は生息していないと言われていますが、神社の小出氏によりますと、住吉神社内には今も「コガタウツギヒメハナバチ」が住んでいると聞きました。

まさに、これらは住吉神社や住吉公園の立地を証明してくれる生物たちと言えるでしょう。(寺田孝重)

 

住吉大社の卯之葉神事

住吉大社の卯之葉神事

住吉大社では神社の鎮座(創建)を祝う神事として卯之葉神事が行われています。

伝承によれば、当地に初めて住吉大神を祭ったのが、卯の年、卯の月、卯の日であったとするため、それにちなんで卯の日が祭日になりました。

現代では新暦に置き換えた五月の初卯日を祭日として、卯の花を飾りつけた神職が、卯の葉(ウツギ)を神前に捧げます。当日は舞楽が奉納されるなど、境内は参詣者で賑わいます。(小出英詞)

 

大正後期から昭和初期にかけて

大阪市南部の街づくりの「要」としての住吉公園

「南大阪公園道路網」の概念図 出典:「新市にできる新公園(五)公園から公園へつながる廻遊道路市民が慰楽の巷にならう」、大阪朝日新聞1928年2月7日付記事
「南大阪公園道路網」の概念図
出典:「新市にできる新公園(五)公園から公園へつながる廻遊道路市民が慰楽の巷にならう」、大阪朝日新聞1928年2月7日付記事

大正7年、8年に新しい公園としての様を呈した住吉公園。

今年は「都市計画法」発足100年の年に当たります。大正8年(1919)4月5日、原内閣において東京市区改正条例に代わり(旧)都市計画法が発布され、東京・大阪を含む六大都市に適用されました。しかし、この第一次大阪都市計画事業では公園計画が除外されており、大阪市の公園としては当時、4万坪の住吉公園のほか、5万坪の天王寺公園と二万坪の中之島公園の3ヶ所が主なものであり、このほか、1万5千坪以下の小公園が約10ヶ所位置づけられるにとどまっていました。

公園が「市民の保健、休養慰安とともにその民衆教化に加え、都市の美観と保安を目的とし、新しい都市において欠くべからざるもの」と認識されるようになる中、大阪市では、明治30年(1897)の第1次市域拡張に次ぎ、大正14年(1925)、住吉公園を含む住吉村等、東成・西成の両郡の編入により第2次市域拡張が行われ、「大大阪」形成の時代を迎えました。これにより、旧市域を見据えるのみならず、新市域も含有した、大阪市100年の大計たるべき「総合計画」が必要に迫られました。

昭和2年(1927)には、大阪市都市協会主催の第1回全国都市問題会議が中之島公会堂で開催され、ここでの議論等を踏まえながら、大大阪としての街づくりの指針となる「総合計画」が、当時助役の関 一、大阪府技師であった大屋霊城らの手により練られていきました。

1万分の1地形図「住吉」昭和4年
1万分の1地形図「住吉」昭和4年
北の股ヶ池公園と南の長池公園を結ぶ緑破線で囲った道路に街路樹が記載されています。このように当時の地形図に街路樹が描かれているのはあまり例がなく、たいへんユニークな街路であったようです。(水内俊雄)

そして昭和3年(1928)5月、新市域を含有した「総合大阪都市計画」が内閣の承認を得るに至りました。本計画は、街路・運河・下水道・公園及び墓地に関する総合的な計画であり、公園においては、過群都市の弊害による都市問題等に配慮し、面積3000坪以上の大公園33ヶ所、子どもの健康増進に寄与する都市施設として3000坪未満の小公園13ヶ所と公園道路12線が都市計画決定されました。ここで「公園道路」とは、公園と公園とを連絡するために附設された風致的な道路で、市民の散歩やドライブに供用できる実用と享楽の使命を果たす都市施設として、全国で初の都市計画決定に至りました。この背景には、都市の風致形成にとどまらず、公園を系統的に配置し、公園道路で連絡することにより、都市全体としての公園機能を高める「公園系統(Park System)」と呼ばれる、欧米由来の計画思想がありました。

この公園系統の考え方は、特に大阪市南郊において顕著にみられたことが、当時の大阪朝日新聞で紹介された附図「南大阪公園道路網」から確認できます。その概要は次のとおりです。天王寺公園から聖天山、帝塚山、住吉神社、住吉公園、昭和5年(1930)に開設された住之江公園(当時、新住吉公園と呼称)を結び、そこから大和川右岸の大和川公園に達するルート。また、桃ヶ池公園(当時、股ヶ池公園と呼称)から長池公園(当時、田邊公園であり、現在の長池西岸には、戦前実現した数少ない公園道路の骨格が残る)、長居公園(当時、臨南寺公園と呼称)を結び、万代池や帝塚山に連絡されるルート。そして、長居公園から南下して大和川公園に至るルート。以上がネットワーク構造をなしており、大阪市南部の都市を一体として捉え、公園機能の向上が図られようとしたことがわかります。当時の住吉公園は、南大阪公園道路網を形成する重要な要素として位置づけられたことが、当時の歴史資料をひも解くとわかるでしょう。(繁村誠人)

田邊公園附設公園道路
(1933年以前)
田邊公園附設公園道路(1933年以前)
出典:大阪市土地整理協会:「大阪市の土地区劃整理」、p.78付図

【参考文献】

 

 

発行:

都市公園住吉公園指定管理共同体
(株式会社美交工業・NPO法人釜ヶ崎支援機構)

 

お問い合わせ:

住吉公園管理事務所 電話 06-6671-2292

 

編集協力:

水内俊雄(大阪市立大学)、小出英詞(住吉大社)
寺田孝重(苅田土地改良記念コミュニティ振興財団)
繁村誠人(NPO法人 国際造園研究センター)
櫻田和也(NPO法人 remo記録と表現とメディアのための組織)