「住吉公園歴史探訪」第6号


住吉公園

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「住吉公園歴史探訪」第6号

  • 2020年3月 3日(火) 14:47 JST

住吉公園150年記念事業
「住吉公園歴史探訪」第6号
歴史探訪 第6号
発行日:2020年3月1日
(季刊:3月・6月・9月・12月発行)

明治6年に開設された大阪府営住吉公園は、2023年に開設150年を迎えます。「住吉公園 歴史探訪」では、住吉公園150年記念事業として住吉公園の歴史をたどり、開設当初からどのように利用され、どのような変遷を遂げてきたか、悠久の歴史に想いを馳せてみたいと思います。

明治初期の住吉門前町

明治から大正期にかけて、住吉公園には茶店が数多く林立していました。それらの源流の一つには、明治維新以前の神社境内地にあった町屋(店舗兼住居)に由来すると考えられます。

明治八年、住吉公園から分離された現在の長峡町の附近は、前号でも紹介した通り、旧街道の町屋つづきの門前町でした。近世には北の住吉新家、南の安立町と共に住吉大社境内の社領新家として栄えました。

長峡町の町屋は、明治六年の公園地指定時には園内に位置しましたが、明治八年の神社境内・公園の分割によって、紀州街道の西側を「安立町新田」の名称で区分したことに始まります(明治十五年に長峡町と改称)。

当時の町屋の様子については、公園開設の直前にあたる明治四年二月の日付をもつ『社領新家間数調帳』(住吉大社所蔵)が参考になります。同帳によれば、街道の東側(現在の住吉大社境内)には小和田屋平兵衛から中屋伊之助までの七軒分、西側には河内屋亦次郎から風呂屋忠兵衛までの三十三軒、旧材木川の脇道に五軒、合せて全四五軒の町屋がありました。その内には社家(神職屋敷)六軒、掛屋敷(借家)七軒を含みます。その屋号と名前は図に掲げておきます。

『住吉・堺名所並ニ豪商案内記』:売薬 大庭千坪(堺市立図書館所蔵)
『住吉・堺名所並ニ豪商案内記』:売薬 大庭千坪(堺市立図書館所蔵)

 

『住吉・堺名所並ニ豪商案内記』:住吉大鳥居前 小山店(堺市立図書館所蔵)
『住吉・堺名所並ニ豪商案内記』:住吉大鳥居前 小山店(堺市立図書館所蔵)

一面で社領新家(現・長峡町)の町屋を紹介しましたが、住吉新家(現・東粉浜)も含めた街道筋の町全体の様子を紹介します。  参考になる資料には、梅原忠治郎「住吉街道噺草」(『上方』第五十号、昭和十年)および参考図「住吉神社前附近(明治初年)」(住吉大社所蔵)があります。

前者は、明治初年の界隈を記憶する古老に聞き取りをした街道沿いの店舗や名所を紹介した講談調の記事で、後者はその参考となった古老久保井清吉の聞き書きによる手稿図になります。共に参照すると、社家(神職屋敷)の位置も一致しており、材木川北側の油屋彦次郎が境内の「油彦」に、西側十五番の我堂屋岩吉が「ガドヤ」、同二十三番の靍池屋勘三郎が「鶴勘」といった屋号で示されています。これによっても、住吉公園の開設頃の雰囲気がうかがわれます。(小出英詞)

 

「住吉神社前附近(明治初年)」(住吉大社所蔵)
「住吉神社前附近(明治初年)」(住吉大社所蔵)

仮製地形図で復元した明治初年(明治初期)南海鉄道開通前の住吉門前町
仮製地形図で復元した明治初年(明治初期)南海鉄道開通前の住吉門前町
この図は、明治31(1898)年に修正が加えられた仮製地形図「大阪近傍図」(日文研所蔵地図データベース)を基図とし、明治19(1886)年の測量で、右の手稿図を2万分の1地形図に重ね合わせています。この修正は当時の阪堺鉄道の補記だけにとどまり、明治19年のものです。阪堺鉄道は、明治18年に開業しており、明治31年に南海鉄道となっていることを付記しておきます。住吉停車場は、現在の南海電鉄粉浜駅と住吉大社駅の間にありました。この鉄道の出現により、隣の紀州街道の交通手段の変化、さまざまな店舗の移動や廃業、あるいは新規出店が、旧境内地の境界線(紫線)の間に位置する社領新家や、北側の住吉新家の紀州街道沿いで起こりました。(水内俊雄)

 

住吉公園の原風景を彩る生物たち

―「御田」のホトケノザ―

住吉大社の自然を物語る植物として、「御田(御神田)」に現在生育している植生の中から「春の七草」を構成している草を紹介していますが、今回はコオニタビラコ(ホトケノザ)を紹介します。

「春の七草」でホトケノザ(仏座)と呼ばれるのは、植物図鑑ではコオニタビラコ(小鬼田平子)と言われるタンポポなどに近いキク科の植物になり(写真①)、以前はあぜ道などでよく見かける雑草でしたが、近年都市部ではあまり見られなくなったものです。

写真①
写真①
コオニタビラコの花の咲いた状態の写真(大阪市立自然史博物館、長谷川匡弘氏 提供)

まず、「ホトケノザ」ですが、この意味は、仏様が座っておられる蓮台のことですので、円形でギサがあれば、どれの形容でも良いわけです。コオニタビラコの場合は、越冬しているロゼット状の葉が円形をなし、形が似ているのでこの名があります(図①)。一方、現在の図鑑でホトケノザを名乗っていますのが一名サンガイソウ(三階草)と言いますシソ科の植物です(写真②)。こちらの方は茎を巻くようについた葉の上に紅紫色の花がぐるりと輪生している様子が「仏座」に見えるところから付けられました。 このように植物的には全く似ても似つかない両者です。

図①

コオニタビラコのロゼット状のイラスト

コオニタビラコのロゼット状のイラスト
七草粥に使用するものはこの形態のもの
このような円形の葉の状態から「ホトケノザ」の名がつきました。

オニタビラコのロゼット状のイラスト

オニタビラコのロゼット状のイラスト

 

写真②
写真②
シソ科のホトケノザの花の咲いた全体写真
このように茎を取り巻いて葉や花がつくのが「ホトケノザ」の名が出た由来。

次のコオニタビラコの方ですが、ホトケノザは、古来タビラコ(田平子)とも呼ばれていました。こちらの名前も前述のロゼット葉が地面にはりついている形状に由来するものです。植物に和名をつける時、この「タビラコ」や「ホトケノザ」が古名であるとの理由で採用されない間に、よく似た仲間の大型植物にオニタビラコ(鬼田平子)の名が付けられてしまったのです(写真③)。「オニ」という形容は、オニゲシ、オニアザミやオニヒトデなど同類の中の大型で強いものにつけます。そこで仕方なく、本家の方に小さいを表す「小」をつけてコオニタビラコの名前ができました。両者の見分け方としては、草丈や葉などは、オニタビラコの方が大型ですが、花一個だけを見ると、コオニタビラコの方が大きいのです。また、オニタビラコの種子にはタンポポのような綿毛がありますが、コオニタビラコにはありません。しかし、元来大きなものの形容語の「鬼」に小さいという言葉を重ねるのはおかしな事で、植物分類で有名な牧野富太郎先生の本では、単にタビラコと記載されているのです。この両者は同じキク科ではありますが、属は違っていますから、別の名前を採用しておけばよかったのかもしれません。

写真③
写真③
オニタビラコの花の咲いた状態の写真

「御神田」の植物調査では、両種がそろって見つかっています。オニタビラコは道端で普通に咲いていますから、見つかっても何の不思議もありませんが、コオニタビラコの方は雑草としても最近見られなくなった植物ですので、前回の「オギョウ」と同様に、この御神田に残っているということは、この田の歴史の長さを感じさせるものがあり、いまもなお明治期の住吉公園の原風景を彩る生物たちが生育していることになります。(寺田孝重)

 

「住吉公園を作った男」大屋霊城を語る

ここでは「初代の緑の都市計画家」「住吉公園を作った男」とも言われる大屋霊城その人のことを紹介します。大阪府公園主管技師、造園技術家、都市計画家、史跡名勝天然記念物調査員等としての実務に加え、新聞雑誌に二百篇を超える論文、随筆などを執筆したその功績は、清水正之、八尾修司らの研究により「大大阪」時代の都市計画思想として、あらためて再評価されてきました。

大屋は、明治二十三年に福岡県で真宗大谷派養福寺 住職徳霊氏の三男に生まれました。長兄二人の名はそれぞれ徳城と徳圓で、霊城と名付けられた所以もここにあります。東京帝国大学農学部を大正四年に卒業後、大阪へは大正六年に高等官七等待遇で府立農学校の教諭として赴任し、教職の傍ら府営住吉公園改良事務の嘱託に就いたのは大正七年二月のことでした。

大正八(一九一九)年四月の(旧)都市計画法公布にともない大正九年三月わが国に初めて設けられた都市計画地方委員会の技師を拝命し、住吉公園改良工事の竣工した同年には処女著作『庭園の設計と施工』を上梓。結婚した大正十年には天下茶屋松月旅館から住吉公園北側の寺本氏別邸に居を移しています。当時、全国でも公園の設計及び指導ができる人は少なく、長岡安平や本多静六といった名立たる造園家と同様、岸和田の千亀利公園、宝塚植物園、釜山府釜山公園など、全国各地の公園の設計指導を行いました。

「建築ト社会」第六輯 第四号
「建築ト社会」第六輯 第四号

大正十年から大正十一年にかけて渡欧して都市計画及び緑地計画を視察調査、田園都市運動の創始者として著名なエベネザー・ハワード(Ebenezer Howard)に面会し、代表的な街としてロンドン北郊のレッチワースにも訪れています。その成果として『建築ト社会』第六輯(大正十二年)に連載された「進め過群より花園に」があります。大大阪と呼ばれることになる大正十四(一九二五)年の第二次市域拡張を前に、大阪市は二百六十八万人という人口の集中による諸問題に直面していました。

第六輯第壱号の冒頭から、大屋はその問題を「過群」すなわち過密に見定めます。喫緊の課題は、都市の排水施設の不足による衛生対策でした。「就中湿気、日照、通風、空気清浄の四つは最も人身に大なる影響を及ぼす」として室内の換気を強調した上で、さらに「光線の人躰に及ぼす影響は通風以上」として、「我が国では昔から庭は一種の贅沢物扱ひに成つて居た」ことに対し、植物の重要性が述べられています。

第四号ではあまりに人間味をはなれている複数階建てアパートメント式の住宅に対する「住宅様式の一大革命」が紹介されています。「彼等は叫んだ四階建から平屋へ!建物本位の住宅から庭本位の住宅へ!不自然な市内より自然な郊外へ!賃貸長屋より自分の家へ!過群の生活より花園の生活へ!」これこそハワードの田園都市論に他なりません。大屋はこれを「工場を田舎に分散して農村の疲弊を防止すると共に都市集注熱によつて起る不自然なる過群生活から市民を救ふて健全なる身體精神とを彼等に賦與んとする」ものであると評価して熱心に説きました。

当時欧米では『明日の田園都市』と改題されて現代の古典となるハワードの小冊子『To-morrow』が発表されたところでした。そこでは、従来の都市住宅はシステムを間違えていること、根本的に非衛生的であるなどの欠点が指摘され、こうした都市の住宅問題を解決するためにはGarden City(田園都市)より他にないことを力説するもので、大屋のその後に大きな影響がうかがえます。田園都市論の方法としては「不衛生な中層アパートを見直し、空地を主とし、街の平面的な生成を計るべき。過群を離れて自然に親しまん」ということになります。ただ、それでは街の活性化を欠くというので、反対に賃貸長屋のアパート形式を改造する集合住宅で都市の生活問題を解決しようとする動向が、経済的にはむしろ主流なのでした。

鉄道と住宅地開発が相まった時世に帰国した大屋は、藤井寺、甲子園花苑都市などの郊外住宅地の設計を行います。大正十三年には、自ら新婚旅行に来た箕面公園において、隣接する国有林の一部を借り受けて回遊道路新設工事に着手し、施設の充実と拡張を行いました。藤井寺では野球場のとなりに教材園を設ける、甲子園においては庭園や花壇の指導、種苗まで提供する園芸場を設けるなど大変ユニークなものでした。大正十五年には病弱な妻のために国分駅から一丁離れた玉手山に海外視察で学んだ衛生的なコロニーハウスに居を移しています。時あたかも大大阪の都市計画創成期、大阪市長の関一とともに昭和三年五月には、大阪都市計画において公園道路や自由空地の考えをとりいれた公園計画を策定しました。常に「自分は単なる公園屋や園芸家ではなく、都市計画家である」と述べていた所以は、住之江公園が竣工・開園した昭和五年の『公園及運動場』の出版で頃日の薀蓄としてうかがえるところです。

枚岡公園および山田公園の新設が昭和八年の府会で決まり、翌年に枚岡公園計画地と暗峠などを視察、天然記念物のホトトギスを調査ののち帰宅したその翌日、急性盲腸炎のため四十五歳の若さで急逝しました。枚岡公園は、信貴生駒山系のハイキングコースとしていまも親しまれています。(繁村誠人)

参考文献

  • 大屋霊城「進め過群より花園へ」『建築ト社会』第六輯第壱号~同八号 日本建築協會 発行 大正十二(一九二三)年
  • 「公園」第二巻第一号 大屋霊城追悼号:大阪公園協会 発行 昭和十(一九三五)年六月二十日
  • 清水正之「論客 大屋霊城 初代の緑の都市計画家」『ランドスケープ研究』六十巻三号 日本造園学会一九九七年一月
  • 八尾修司「大屋霊城の公園系統の思想と戦前期大阪公園計画との関連性」『景観・デザイン研究講演集』十号 土木学会二〇一四年十二月

 

 

発行:

都市公園住吉公園指定管理共同体
(株式会社美交工業・NPO法人釜ヶ崎支援機構)

 

お問い合わせ:

住吉公園管理事務所 電話 06-6671-2292

 

編集委員:

水内俊雄(大阪市立大学)、小出英詞(住吉大社)
寺田孝重(苅田土地改良記念コミュニティ振興財団)
繁村誠人(NPO法人 国際造園研究センター)
櫻田和也(NPO法人 remo記録と表現とメディアのための組織)