「住吉公園歴史探訪」第7号


住吉公園

大阪府営5公園:久宝寺緑地 住之江 住吉 長野 石川河川公園の情報サイト

「住吉公園歴史探訪」第7号

  • 2020年6月 3日(水) 11:26 JST

住吉公園150年記念事業
「住吉公園歴史探訪」第7号
歴史探訪 第7号
発行日:2020年6月1日
(季刊:3月・6月・9月・12月発行)

明治6年に開設された大阪府営住吉公園は、2023年に開設150年を迎えます。「住吉公園 歴史探訪」では、住吉公園150年記念事業として住吉公園の歴史をたどり、開設当初からどのように利用され、どのような変遷を遂げてきたか、悠久の歴史に想いを馳せてみたいと思います。

明治後期の公園茶屋

住吉公園周辺は、近世には紀州街道の往来と住吉詣で隆盛をみた住吉界隈の町屋でしたが、明治六年の住吉大社境内全域の公園地設定、明治八年の神社・公園・民有地の分割をへて、門前町の様子が大きく変化して行きました。まず、明治十五(一八八二)年六月二十八日付の大阪府布達において、出店者に対して所管役所への申請義務が告示されました。また、同年十月十三日には公園地内取締規則の布達もあり、次第に制度も整えられていったようです。さらに、明治十九年の阪堺鉄道(現 南海電鉄)開通によって、街道の往来が変化し、神社から公園にかけての駅周辺を除いた街道の町屋は次第に衰退して行きましたが、それに反して公園内に茶屋が林立するようになりました。

宇田川文海の編述による『南海鉄道案内』(明治三十二年刊)の「住吉公園」の説明には、以下の記述があります。

住吉神社の前の松原です、此中には名高い高燈籠もあり、いでみ出見の浜へ出で見れば、淡路島、摂州播州紀州の山々、遠近濃淡絵の如く風景得も言はれず、園内に温泉あり、ちゃみせ茶肆あり、酒楼あり、料亭あり、近来は所々に池を掘て蓮を栽ゑ、秋草を咲かせ、花紅葉さへ植添へたれば、実に最上の四季の遊散場、学校生徒の運動会を始め、散歩の遊客いつも松緑りに沙明な間を逍遥しています、此公園も亦日本有数のものです。

このように、浴場・茶店・料理茶屋・料亭などが住吉公園にあり、園内がとても賑わっていたことが分かります。

その頃に描かれた住吉公園見取図があります。ここでは平成六(一九九四)年に大阪府発行の「府営公園のあゆみー公園課30周年記念誌ー」に掲載された図を参考にします。東は住吉大社・長峡町から、西は高燈籠・十三間堀川まで、その広大な領域をよく網羅しています。凡例には「〇内ノ数字ハ使用地各号」とあり、図中の丸で囲まれた数字は使用地、つまり、茶屋などの店舗・建家を示しているようです。全部で七十五軒もあり、長峡町の店舗も含めて考えれば、じつに数多くの店舗で賑わっており、遊客を待ち迎えていたことでしょう。 (小出英詞)

住吉公園図

※1面の本文 「府営公園のあゆみー公園課30周年記念誌―」に掲載された図のオリジナルが発見されたため、オリジナル図に差し替えさせていただきました。

 

住吉公園に存在した州のなごり

現在、住吉公園のある場所は、その昔、松原が広がり、「」と称する場所が散在していました。これはいにしえの浜辺にあったなかす中州(土砂が堆積した陸地)の痕跡でありました。江戸時代の『住吉名勝図会』巻四には「一二三之洲」と題して、説明文には「一の洲、二の洲、三の洲となづけたる処は、今の安立町の北の松原の内」にあったと書かれています

さらに、源俊頼(平安後期の歌人)の歌に「入ぬるをよろこひかほにのむ人はいちのすさけをとひこともなし」という句があります。これは『散木奇歌集』に収録される詠歌で、かつての住吉浜にはあちこちに中州があり、州から州へと小船で渡りながら、酒を飲み、歌を詠んで、風雅に遊んでいた様子を歌ったものです。

これらの挿絵と説明によって、陸地化した浜辺の松原の内部に、中州の痕跡とおぼしき小丘が、江戸後期でもよく知られていたことが分かります。

住吉浜の中州で船遊びに興じる様子(『住吉名勝図会』巻四・住吉名所「一二三之洲」)
住吉浜の中州で船遊びに興じる様子
(『住吉名勝図会』巻四・住吉名所「一二三之洲」)

小さな丘(元の中州)は明治初期まで存在していたようで、前号でも紹介した手稿図「住吉神社前附近」(明治初期の聞き取り図)にも見えます。公園の北東側から順に一の洲・三の洲・五の洲が、南側にも同様に二の洲・四の洲があったことが特筆されます(前号2面の右図を参照)。この五つの洲の間を「W」を描くように船遊びして、酒をのみ歌を詠んだものと想像されます。

住吉公園は大正時代の大改修によって様々な施設が整備されて行きましたが、その一つに猿山(第四号地の猿舎)がありました。元の小丘を転用したものと伝えられますが、昭和十(一九三五)年に現・国道二十六号線が開通した際に失われました。その痕跡を確認できないのは残念でなりません。(小出英詞)

 

明治中期の大阪南郊の描かれ方

下の地図は、表面が地図、裏面が名所の案内で、明治二十八(一八九五)年当時の大阪市中・近郊案内となっています。左下の全体図でわかるように、堺のほか、大阪と堺の間や、生駒方面への描写があり、絵画的表現もあいまって、近郊への行楽をいざなっています。大阪市中の施設も、見所を朱色で塗り、建物表現も付されているので、明治中期の文明開化の景観変化も見て取れる、楽しい地図となっています。

大阪市明細地圖、明治28(1895)年 日文研所蔵地図データベースより
大阪市明細地圖、明治28(1895)年 日文研所蔵地図データベースより

住吉公園、住吉大社方面には、生駒方面には見られないいくつかの朱色の記載があり、注目エリアとなっていたようです。当時の阪堺鉄道(現 南海電鉄)と大阪鉄道(現 大和路線、大阪環状線)の交差するところが、今の新今宮駅になります。大阪鉄道の北側をみると、今宮商業倶楽部の高楼が描かれ、その後の博覧会や新世界の開発の先駆けとなりました。南側では、避病院(現 大阪市大病院)に朱色が付されており、近代の景観要素とされている点が興味深いです。上町台地崖近辺では、今の阿倍野区橋本町にあった天下茶屋遊園や聖天さん、阿部野神社や紀州街道沿いの天下茶屋集落にも朱色が付され、裏面にある名所案内(下資料参照)でも窺われるように、見所が集中しています。

住吉方面では、大社と高燈籠周辺に朱色が入り、境内から住吉公園にかけて松林が広範に描かれ、海岸線からちぬ茅渟の海に風光明媚な感が味わえます。そして帆船や汽船が見える堺方面へと描写は移って行きます。

鉄道については、複線電化で登場する阪神、京阪、箕面有馬電軌の開業前でしたが、明治二十七(一八九四)年の時刻表(「汽車汽船旅行案内」」明治二十七年十一月号、奈良大学三木理史教授所蔵)によると、難波駅発堺行きの阪堺鉄道の蒸気列車は、始発の五時から終発の九時まで、見事に四十分間隔で運転されていました。明治二十五(一八九二)年に住吉まで複線化され、蒸気列車にしては、比較的頻度の高い運転間隔となっています。それだけ需要の多さに応えたものと思われます。

沿線には、天下茶屋駅東側方面に別荘、別宅が設けられるようになります。神戸の官営鉄道の住吉駅山手側の六甲山麓エリアと並んで、大阪の富裕な商家の格好の「郊外居住」の先陣を切ったエリアと言えるでしょう。さらに南の海岸沿いの美しい風景として、住吉方面の雰囲気づくりに、住吉大社、住吉公園もその一翼を担ったものと思われます。

明治末期の明治四十(一九〇七)年に南海鉄道の複線電化による電車の頻発運転開始により、玉出やその後に粉浜、住吉公園(現 住吉大社)などの駅ができ、沿線の郊外居住は一挙に本格化しました。まさにその前史を物語る地図と言えます。 (水内俊雄)

 

住吉公園の原風景を彩る生物たち

―「御田」のナズナ―

突然ですが野菜の分類をご存知でしょうか。

ナスやトマト(ナス科)、イチゴ(バラ科)、メロン(ウリ科)など、果実を食用する「果菜類」。ゴボウ(キク科)、ダイコンやカブ(アブラナ科)、ニンジン(セリ科)、ジャガイモ(ナス科)といった地下部を食用する「根菜類」。そして、大半をアブラナ科植物が占める、葉や茎を食用にします「葉菜類」があります。

例えばハクサイ・キャベツ・ミズナ・コマツナ・マナなどは全てアブラナ科に属します。我が家の台所でアブラナ科以外の葉菜を挙げるとなると、レタス(キク科)、ネギ(ユリ科)、ホウレンソウ(アカザ科)くらいではないでしょうか。また、春の七草においてもナズナ・スズナ・スズシロと3種をアブラナ科が占め主流となっています。

葉菜類の王者であるアブラナ科植物に属し、一時は「菜」として愛されていたのに、現在は「雑草」に甘んじているのが、今回特集する「ナズナ(薺)」です(写真①)。植物の名前が「ナ(菜)」で終わるということは、その植物を日本人が一度は「菜っ葉」として食べてみようとした事実の表れで、樹木でも「ズイナ(随菜)」などは、茶のように木の葉を食べようとした名残であると言われています。

写真① ナズナの花
写真① ナズナの花

ナズナは、皆さんも一度は道端やアゼ道などで見たことがあると思います。ナズナの花が終わって、実(莢)をつけた姿も見ておられるでしょう(写真②)。

写真② ナズナの莢
写真② ナズナの莢

ナズナは、シャミセンソウやペンペングサの名で通る地域もあります。その理由は、実が熟した頃に左右に振ると中で種子がチャラチャラと鳴り、また実の莢が三味線バチ(写真③)のような形をしていたことからシャミセンソウとも呼ばれてきました。さらに、三味線はペンペンと鳴らしますので、ペンペングサの名も生まれてきたと云うことになります。

写真③ 三味線バチ
写真③ 三味線バチ

ナズナの名はナデナ(撫菜)やメデナ(愛菜)から出たと言われ、数多い「菜」の中でも愛されていました。食用したのは越冬しているロゼット状態の新葉(写真④)で、この葉はおいしいのですが、ハクサイやキャベツのように大きくはなりません。つまり、ボリュームの無さから、栽培しようと思われなかったのでしょう。このような経過から、「菜」の中心は農業に向いた「葉菜」へと変わっていきました。

写真④ ナズナのロゼット
写真④ ナズナのロゼット

このナズナによく似た植物がイヌナズナ(犬薺)です。犬は人間の重要なパートナーですが、植物の命名においては「有用性が劣る」という形容に使用され、イヌタデ・イヌホウズキ・イヌツゲなどの名が見られます。こちらは食用にはならず、小ぶりな植物です。

さらに最近大阪市内で見かけるものにグンバイナズナ(軍配薺)があります(写真⑤)。莢の形がバチではなく軍配のようになっています。

写真⑤ グンバイナズナ
写真⑤ グンバイナズナ

これら食用にならないナズナの仲間は、「御田」の植物調査では見られておりません。このような所にも御田の歴史的背景が覗いているのかもしれません。(寺田孝重)

 

大正期の当世公園事情

前回第六号で大屋霊城氏について紹介しましたが、大正九(一九二〇)年五月、住吉公園の改良工事の報告が大屋氏ら公園関係職員からなされ、併せてその年八月に「庭園の設計と施工」という本が出版されています。

改良工事の設計根拠に基づき、本工事を参考事例として、各所に説明がなされており、挿入された写真や図譜から当時の公園内の様子も推察されます。

それはまた現代の公園技術書としても大いに参考になります。「公園」とは、太政官布達による「万民偕楽の地」を意味する新語であって、「公園づくり」という意味は、あくまでも「庭園」「にわ」=いみば(斎場)を作(造)る、いわゆる「作庭」また「造庭」の考え方とその技術です。

「公園」は邸園、別荘園、遊園地などの「私園」と対比的に使われ、またスギ・ヒノキ林などの生産地的園地とも区別され、娯楽、鑑賞または装飾の目的をもって風致的に備わった地域を意味するとしています。因みに当時は「造園」とか「景園」という新語が使われていましたが、これに関する一切の事項を研究する学問が「庭園学」です。

この改良工事では、本多静六氏の提案を受け、中でも景観を重視し、当時の課題であった衛生面の向上を目的として、池の改修と園路の整備を行ったことがうかがわれます。

園内の水はけも悪く、以前の遊観所が抱えていた、多くの来園者による園地の踏み固めや踏み荒らしによる松林の衰弱化の課題から、園路の整備と池の改修は重要でした。

公園の園路は言うまでもありませんが、一般の道路とは違い、通過する貨物重量に大差がありますが、ただ単に行通ゆきかよいの便宜上のみならず、園内各部を連結して全園を一図形として統一する重要な役目を持っています。公園の案内者たる役をなすのみならず、それ自体一つの美的形態を有しており、風致を重視し、路面の排水施設なども構成する公園施設です。

園路の設計は図面上において美観を意識するだけでなく、配置として主道と副道とを区別させ、住吉公園では主道幅員二間半(約四・五m)、副道を九尺(二・七m)と六尺(約一・八m)の2種類の構成とし、排水のために玉石積みの側溝を設けています。

ところで、京都の桂離宮では遊びめぐる「廻遊式庭園」は著名ですが、それまでの多くの日本庭園は、屋内からの眺めを主とし、園内を遊歩する事例は極めて少ないのです。それに対して、当時欧米から紹介された西洋の公園は、敷地規模が宏大で、園路の計画の考え方も進んでいました。庭園から公園へ、必然としての施設の機能の変化ともいえます。

写真① 南3号池(第17版 風情多き古池)「遠景に主道の石橋が見える」
写真① 南3号池(第17版 風情多き古池)
「遠景に主道の石橋が見える」

絵葉書(住吉名所)公園の一部
絵葉書(住吉名所)公園の一部

池は、園路の計画に合わせて、南と北それぞれに修景を加味し、三基を架橋しています。橋はそれぞれ三つのタイプで、南三号池(写真①)は池拡張のためと主道の線形から長さ五間(約九m)の石橋と、もう一基は幅員二間(約三・六m)添景として反り橋様の土橋(写真②)、北四号池の架橋は、丸太二つ割の橋(写真③)でした。昭和十三(一九三八)年の国道二十六号敷設のために池本体が廃止されました。

写真② 南池土橋(第44版 崩し積みの池)写真③ 北第4号池(第39版 丸太二ツ割の橋)
写真② 南池土橋(第44版 崩し積みの池)/写真③ 北第4号池(第39版 丸太二ツ割の橋)

植栽に関しては、住吉の松は古くから詩歌に伝わり、摂津の国の名勝地でもあったため、ぜひ松をもって公園の主要樹木としたいという方針のもと、その保存と育樹の方法を講究するという課題がありました。しかし、公園周辺はすでに工業地帯でもあり、老松の生存繁茂の見込みは少なく、改良工事においては古来の松の景観を取り戻すため、後継となる高さ三~四尺(一・〇~一・二m)の若松三百五十本を浜寺公園から移植しています。

大阪市(当時公園は住吉村で市の郊外)に最も近い位置にあることから、上述の改良とともに、体育の必要が求められるような時勢ともなり、中央に児童や家族で楽しめる芝生の運動場、西に大運動場、東には在来のスポーツ広場を持ち、さらに大花壇や猿舎、修景的な池を備えたかつてない住吉公園として生まれ変わりました。(繁村誠人)

参考文献

庭園の設計と施工
著者 大屋霊城 発刊 大正九年八月十八日 裳華房
(写真①〜③は、一六六・三八二・四二八頁の写真を引用)
大阪府住吉公園改良工事竣工報告書
報告 大屋霊城 大正九年五月
公園第二巻第一号 大屋霊城氏追悼号
発行 大阪公園協会 昭和十年六月二十日

 

 

発行:

都市公園住吉公園指定管理共同体
(株式会社美交工業・NPO法人釜ヶ崎支援機構)

 

お問い合わせ:

住吉公園管理事務所 電話 06-6671-2292

 

編集委員:

水内俊雄(代表、大阪市立大学)、小出英詞(住吉大社)
寺田孝重(苅田土地改良記念コミュニティ振興財団)
繁村誠人(NPO法人 国際造園研究センター)
櫻田和也(NPO法人 remo記録と表現とメディアのための組織)