住吉公園

ようこそ! 大阪府営5公園ポータル いこいこ! おおさかの公園 2018年12月12日(水) 21:18 JST

住吉公園 歴史探訪 第1号

住吉公園150年記念事業
住吉公園「歴史探訪」第1号
歴史探訪 第1号
発行日:2018年12月1日
(季刊:3月・6月・9月・12月発行)

 

明治6年に開設された大阪府営住吉公園は、2023年に開設150年を迎えます。「住吉公園 歴史探訪」では、住吉公園150年記念事業として住吉公園の歴史をたどり、開設当初からどのように利用され、どのような変遷を遂げてきたか、悠久の歴史に想いを馳せてみたいと思います。

住吉公園の誕生

ご存知ですか?住吉公園は日本最初の公園

住吉公園は、明治の新政府からの通達によって大阪で最初に指定された公園です。草創期は住吉大社の境内を母体として誕生し、はじめは歓楽遊興の公園として、後には都市型の府営公園として、今日まで府民に広く親しまれています。

住吉大社境内地公園化についての通達文イメージ
住吉大社境内地公園化についての通達文
寺田家文書 大阪市史編纂所 寄託

 

近代日本の公園は、明治の初期に新政府からの通達によって設置が開始されました。明治六年(一八七三)一月十五日に政府から各府県に対して公園設置に向けての通達がありました。(太政官布達第十六号)

 

正院達第拾六号    府 縣 ヘ
三府ヲ始人民輻輳ノ地ニシテ古來ノ勝區名人ノ舊跡等是迄羣集遊観觀ノ場所(東京ニ於テハ金龍山淺草寺東叡山寬永寺境内ノ類京都ニ於テハ八坂社淸水ノ境内嵐山ノ類總テ社地境内除地或ハ公有地ノ類)從前高外除地ニ屬セル分ハ永ク萬人偕樂ノ地トシ公園ト可被相定ニ付府縣ニ於テ右地所ヲ擇ヒ其景況巨細取調圖面相添ヘ大藏省ヘ可伺出事
    太 政 官
明治六年一月十五日

 

これを受けて、大阪府下でも公園地が選定され、同年の八月二日、住吉大社の境内全域をもって最初の公園地指定となりました。また、九月には『公園地規則』が制定され、名実ともに住吉公園の開設となったのです。その後、十二月には浜寺公園も開設されました。

指定時の住吉公園は、江戸時代までの住吉大社の境内地すべてを対象としました。その広さは相当なもので、約二十二・二ヘクタール(六万七千百四十一坪)もありました。現・住吉公園は八ヘクタール程ですから、当初の領域には現・住吉公園と住吉大社のほか、相当に広範囲を含んでいたことになります。現在の住居表示でいえば、住吉区の住吉二丁目九~十七番、長峡町、住之江区の浜口東一丁目、浜口西一丁目にあたります。

誕生時の公園は、はじめは従前通りに神社側の管理が継続されましたが、まもなく公園地規則にもとづいて取締人に移管します。この時、住吉大社禰宜の大庭発、同主典の橋本光全の神職二名が初めて公園取締人に就任しました。

さらに、明治七年(一八七四)五月には公園地の「お砂持ち」勧進が実施されました。当時の公園地内には各所に低地がありましたので、これを埋めて地ならしを行うために、広く庶人に呼びかけて砂を持ち寄せて造成が行なわれました。記録によれば、砂持ちの立札が、日本橋・心斎橋・千代崎橋・新町橋・本町橋・天神橋・淀屋橋といった大阪を代表する七橋に立てられ、住吉大社の崇敬者を中心に大阪近隣の市民に対して勧進を募ったようです。

 

明治8年(1875)10月住吉神社境内測量図イメージ
明治8年(1875)10月住吉神社境内測量図
寺田家文書 大阪市史編纂所 寄託

 

やがて、神社と公園が混在する状況を解決するため分離が行なわれました。明治八年(一八七五)三月二十三日、住吉公園地(旧住吉大社境内)の内、神社境内地は約二ヘクタール(六千三百三十坪)に、新たに住吉公園地は約二十ヘクタール(六万八百十一坪)に分割されました。その後の測量実施や区割変更などを経て、最終的には公園地を約十二・七ヘクタールに、神社境内地は約五・八ヘクタールに、その外は官有地・民有地として除外して、明治十年(一八七七)二月三日付で登記となりました。現在は公園地の大半が国有地となっています。
(小出英詞)

 

 

公園創設期関連史料を読む

寺田孝重所蔵・大阪市史編纂所寄託

明治初期、住吉神社のある大阪府第七大区二小区の区長を高祖父である寺田忠重が務めていました。また、江戸期より住吉神社の重要な所領である住吉郡七道村が高槻藩領でもあったため、当家が庄屋職を兼務していた関係や、当地域の郷社である大依羅(おおよさみ)神社の復興を住吉神社が行い、このときの幹事役も務めていたことなどから、住吉神社の公園化に関して各種の関与があったものと考えられます。とくに明治八年住吉神社境内測量図は、忠重自身が測量を行っており、この方面の技術も持っていたものと思われます。(寺田孝重)

 

明治8年住吉公園地の面積変更に関する通達文書「地第廿九号」イメージ
明治8年住吉公園地の面積変更に関する通達文書「地第廿九号」
寺田家文書 大阪市史編纂所 寄託

 

『大阪府公園地規則』の内容

明治6年(1873)『大阪府公園地規則』イメージ
明治6年(1873)『大阪府公園地規則』:住吉大社蔵

 

  • 一、公園内に居住する神官・僧侶は、地税の上納は必要ないので、左に挙げる項目を怠りなく勤めること。
  • 一、公園というものは、由緒ある景勝の地が破壊・衰退しないように、長く風景を維持し、すべての市民が楽しむための趣意で設けられるものである。そのため、花や木を育成することに反する者が無いように、出来る限りの注意をおこない、万が一にも犯す者があればこれを取り押さえて、すみやかに当局に届け出ること。
  • 一、公園内にある神社・仏塔は、従来のとおり神官・僧侶において管理すること。
  • 一、周囲の垣や塀が壊れた場合は、官幣社(住吉大社)は官に申し出ること。そのほかの両寺(箕面瀧安寺・四天王寺)は、官地に居住する者の中から、それ相当の経費を出してそれぞれ修理を加えて申し出ること。
  • 一、道路の修理は、以前に大蔵省より通達された内容に基づいて、その所属の村々にその旨を申し入れ、工事時には人々の往来に不便にならないよう、注意して取り進めること。
  • 一、掃除人を公園ごとに一人ずつ置く。給料は年三円。官地に居住する者の中から取締人を選定して、不都合のないように運営すること。
  • 一、公園内には不潔なものが無きよう、朝夕に園内清掃に専念して、常に清潔を保つようにすること。
  • 一、遊楽のため茶店やそのほかの休憩所などを設置したいものは、実地で邪魔にならない場所には許可するので、区長の証明印のある書面をもって願い出ること。
  • 一、荒地の草刈りは許可するので、その都度で出入りするごとに取締人へ届け出ること。もしも申告の無い者が、むやみやたらに鋸(のこぎり)等の刃物を所持して公園内に立ち入った場合は、これを取り押さえて、すみやかに府庁へ訴え出ること。
  • 一、取締人は、朝夕に園内や周囲を確認して、火の元にはとりわけ注意を払うこと。

 

右の一つ一つの箇条を堅く守るべきものでる。
明治六年(一八七三)九月 大阪府(大阪府庁印)。

 

 

『摂津国一之宮 住吉神社御境内領地絵図面』

『摂津国一之宮住吉社御境内領地絵図面』江戸後期イメージ

『摂津国一之宮住吉社御境内領地絵図面』江戸後期(拡大図)イメージ
『摂津国一之宮住吉社御境内領地絵図面』江戸後期:住吉大社蔵

 

江戸時代の住吉社領の全域を描いた絵図面です。作成年代は、享保十五年(一七三〇)検地の北島新田から宝暦五年(一七五五)検地の加賀屋新田までの記載があり、 それ以降の新田の名称が見られないことから、一七〇〇年代中頃の成立と考えられます。

領域には、鳥居村・大領村・坂之井村・新町村・青蓮寺村・千躰村・殿辻村・沢之口村・安立町・浜口村・南浜口村・島村の全域、住吉村・遠里小野村・七道領の一部が含まれます。それら社領内における神社・仏閣のほか、田畑・建家・河川・道筋などが彩色で描写され、字界や畔道の様子が細かく示されています。

絵図中心の左上方の緑色が住吉社境内で、社殿や松樹の景観が表現されています。明治六年(一八七三)八月、これらの境内地全域が公園地の指定を受けました。(小出英詞)

 

明治8年(1875)10月住吉公園測量図イメージ
明治8年(1875)10月住吉公園測量図
寺田家文書 大阪市史編纂所 寄託

 

 

住吉神社の古文書と寺田家の測量図面から見た
公園地と境内地の移り変わり

明治6年8月公園地の図は大阪府で初めて公園地に指定された住吉公園の区域図です。この時の公園区域は住吉神社の境内そのものであり、西は十三間堀川まで、北と南は材木川、細江川に挟まれた範囲でした。

明治8年3月の図は、住吉神社から神事に支障があるため境内返還を要望した結果、同月23日に境内が返還されたときの公園地との関係を示したものです。境内の区域は住吉神社の古文書から復元したもので、本殿区域と参道から成り、参道にはそり橋が含まれています。

その後も住吉神社は各種神事や神域保全のため紀州街道以東を境内に返還されるよう要望を重ねた結果、明治8年10月9日に図のように街道以東は境内に復しましたが、田畑、屋敷地等は民地に払い下げられることになりました。また、街道以西の公園地も同様に長峡町東側と公園西側の田畑が公園地から削除されることとなりました。区域については同年10月の寺田家文書の測量図を元にしましたが、明治8年10月には南西側民地に挟まれて公園地が残されていることから、その後も公園区域の変遷があったものと考えられます。(荒木美喜男)

 

明治6年8月公園地イメージ
明治6年8月公園地

 

明治8年3月境内地、公園地イメージ
明治8年3月境内地、公園地

 

明治8年10月境内地、公園地、官民民有地イメージ
明治8年10月境内地、公園地、官民民有地

 


絵図や古い地図から見る住吉公園、住吉大社の周辺の地理

天保の摂津国絵図  天保8年(1837)ごろイメージ
天保の摂津国絵図  天保8年(1837)ごろ:国立公文書館アーカイブより

 

天保年間、一八三〇年代後半に描かれた摂津国の南部、黒線で当時の住吉郡〔白〕、西成郡〔緑〕、東成郡〔青〕の境界が描かれています。村々は当時の藩政村であり、明治以降の再編を通じて大字となる行政的な広がりをもつ地名の最小単位です。現在の住吉区を中心とする町名の発祥です。

住吉大社は上町台地崖に描かれた林の広がりの中に住吉大明神として描かれています。また赤を背景にした村々が住吉社領です。大社のある住吉村や遠里小野村、七道村にも一部社領がありました(2面絵図参照)。また、その他の村々の多くは幕府領、旗本領であり、一部小田原藩、古河藩、高槻藩領などもありました。

 

明治22年(1889)測図の2万分の1(天王寺村、天保山)イメージ
明治22年(1889)測図の2万分の1(天王寺村、天保山):国土地理院

 

明治二十二年測量の地形図では住吉大社から住吉公園にかけて、緑で敷地を示しています。近代公園以前の形態が地形図上で確認でき、2面の江戸後期の境内を示した絵図とあわせ見ると、その分布がよくわかります。明治期に赤色で付している村名は、上図の天保国絵図と対照してください。西成郡と住吉郡、明治二十九年(一八九六)より東成郡域にあることもよく分かります。村名や位置も天保絵図と対照してください。なお蒸気時代の南海鉄道(一八九八年までは阪堺鉄道)の住吉停車場は、電化後の一九一七年に閉鎖されました。一九一二年に増設された粉浜駅と住吉公園駅の間に位置していました。

 

大正10年(1921)測図の1万分の1(住吉)の地形図イメージ
大正10年(1921)測図の1万分の1(住吉)の地形図:国土地理院

 

上図から、大改修後以後の近代公園の新しい形態が、地形図上で見事に見られます。また、公園用地の西側や南海鉄道と紀州街道を走る阪堺線との間は、一般市街地として描かれ、公園西、公園南、そして長峡といった新町名が付されています。住吉公園駅が公園の玄関口として新設され、大大阪誕生となる一九二五年の合併直前の住吉村、粉浜村、墨江村、安立町、敷津村の市街地化の進展も見て取れます。今はない、粉浜の合同紡績工場や敷津村の菖蒲園もその形態がよく見て取れます。(水内俊雄)

 

 

明治・大正・昭和期の公園利用から見る住吉公園の成り立ち

大正七年頃の住吉公園第一回目大改修に着目

 

大正9年(1920)住吉公園平面図イメージ
大正9年(1920)住吉公園平面図
農學博士 大屋霊城著「計畫・設計・施工 公園及運動場」より

 

住吉公園の成り立ちを明治・大正・昭和期の公園利用からひも解くと、まず住吉公園の平面図は、大正二年から同六年までと、大正七年から昭和十三年まで、昭和十三年から野球場などができるまで、昭和六十三年からの〝花ふる大阪〟事業による改修と、四つの大きな変化があります。今回は、大きな改変がもたらされた大正七年頃における住吉公園の大改修に着目します。(上図)

当時の住吉公園には二つの問題がありました。一つは狭い公園に多くの茶屋があり、そのため風紀が悪いことでした。もう一つは松樹の枯損でした。大阪府では改修のための調査を実施し、大正六年に改修案を府議会に示しております。住吉公園の大改修では、茶屋や料亭を公園の中心から排除するとともに、その数量の削減を図りました。さらに大正十一年には現状を追認する形で公園南側・浜口町一帯を「芸妓居住地」として指定し、住吉神社周辺の貸座敷や芸妓をこの区域にまとめるなどの対策を行いました。また、警察においても公園内の風紀取締りを強化することとなり、その結果、茶屋、料亭等は営業困難となり、しだいに民家へと形態を変えていくことになりました。そのことが、現在でも公園内に民家が多数存在する原因となったのです。

大正七年から始まる公園の改良計画の特徴は、次のようにまとめられます。

 

  1. 池は「雅致」に欠けるとされ、数を減らし、残すものについて雅致を有するよう変更。
  2. 運動場は極めて狭いので池を埋め立てた部分を以て拡張。
  3. 園路は計画されたものではなく、排水も悪く、樹林地を踏み荒らすなど問題があるので、系統的に園路を改廃。
  4. 松樹が最も枯死している地区については樹種を変えるとともに、圃場や花壇に変更。また周囲には常緑濶葉樹を多く植え替え、さらに枯死した松樹を補植。

 

実際、住吉公園の改良計画では、まず池が整理されています。とくに西側の池は全て廃止され運動場に変わっています。中央の池については趣のある心字池に作り替えられています。また、園路は計画的に配置され各施設を回遊するように廻らされています。そして、料理屋、茶屋などが公園の中心部から周辺部に移転させられ、特に南海電車の東側への移転がよくわかります。(荒木美喜男・蕭閎偉)

 

 

編集協力:

水内俊雄(大阪市立大学)、小出英詞(住吉大社)
寺田孝重(苅田土地改良記念コミュニティ振興財団)
荒木美喜男(大阪府公園OB案内ボランティア)、蕭閎偉(大阪市立大学)
櫻田和也(NPO法人 remo記録と表現とメディアのための組織)