「住吉公園歴史探訪」第17号


住吉公園

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「住吉公園歴史探訪」第17号

  • 2023年12月 5日(火) 10:01 JST

住吉公園150年記念事業
「住吉公園歴史探訪」第17号
歴史探訪 第17号
発行日:2023年12月1日
(季刊:3月・6月・9月・12月発行)

明治6年に開設して150周年を迎えた大阪府営住吉公園の歴史探訪誌として、2018年12月から季刊で第16号まで発刊してまいりました。2023年7月刊の『住吉公園と住吉さん』編纂による一時休止後、2023年12月より再刊しました。ぜひとも住吉公園、大社界隈の悠久の歴史地理をご堪能ください。

住吉公園の原風景を彩る生物たち

―住吉の松Ⅴ「松苗勧進」―

日本の植生は、その地域の気象と土壌によって定まっています。

火山や土砂崩れなどで形成された植物の無い状態から、草本類の侵入が始まり、土壌が形成されますと、かん木や高木が続いて生育し、常緑・落葉の広葉樹に針葉樹を交えた森林(極相林と言う。)に遷移して行きます。

関西の内陸部では、照葉樹と呼ばれるカシ・シイ類やツバキ・クスノキの仲間を主体とする常緑広葉樹に、クヌギ、サクラ、モミジなどの落葉広葉樹とマツ、スギといった針葉樹が加わって極相林を形成しています。奈良の春日原始林がほぼこれにあたります。

しかし、これは内陸部の話で、住吉公園のような海浜部では全く様子が違うことは、本誌第13号で紹介しました。

このような自然条件に人工的な植林などの人為が加わって、林相に大きな変形が起ってきます。例えば、信仰が基礎になり、地域に特有な植生が保持されている吉野山がこの良い事例です。本尊の蔵王権現を刻んだサクラを御神木として、吉野山にお参りする時に「桜の苗」を購入・勧進し、地元住民が維持管理したために、現在のような桜の名所が出来上がりました。

一方、住吉の地では、海浜部の極相林を成すクロマツが主体となり、植生に変化はありません。現に、万葉の時代の「霰松原」が江戸初期の『住吉潮干図』絵巻に描かれ、紀州街道や熊野街道に沿った町家の拡大による松原の後退が認められるものの、植生的にはクスノキを交えた松原の状態が保持されています。

ところが、宝永元年(1704)の大和川付替えにより沿岸部への土砂の流入、堆積が進行し、新田開発による埋立てにより住吉の浜が次第に海から遠ざかり、松林の衰退が始まったと思われます。天明期には、この状況を惜しんだ狂歌師の加倍仲塗(※1)や大伴大江丸(※2)らによって松の苗を購入し、献詠する松苗勧進運動(※3)が始まり、約80年間にわたり展開されました。

住吉大社には元々、「立木の松」や「影向の松」、「相生松」など、松に因む伝承があります。江戸から明治を経て何度か中断があるものの、この植生保護・緑化運動は、現在の「松苗神事」に連綿として継承され、海が遠いものになった今でも、クロマツが多数生息する住吉大社や住吉公園の環境が保持され続けています。(寺田孝重・小出英詞)

写真①
昭和22、23年頃の松苗神事
昭和15年に今里新地により松苗神事が開始され、芸妓が松苗女(め)として神事に奉仕しました。昭和29年を最後に奉仕はなくなりました。

写真②
令和5年の松苗神事・奉植式 住吉大社提供
4月3日に斎行される植樹・献詠の神事。昭和34年より献詠俳句朗詠が加わり、現在は、白拍子・熊野舞が奉奏、献詠 俳句朗詠に続いて、奉植式において若松の苗に土を盛ります。

『松苗集』序文・本文冒頭部 住吉御文庫所蔵
『松苗集』序文・本文冒頭部 住吉御文庫所蔵
 右は加部仲塗の妻吉女による序文の後半部。全釈文「『詞花和歌集』の住吉神詠にあるように、住吉の松と君が代を祝う言葉に倣って、この神域に松苗を植え添えることを勧進します。その上さらに、各人がすぐさま歌句を神前に手向けるならば、神はその真心をご覧になられ、千年の時を経てきた姫小松とともに、植主を言祝いでくださるものと、住の江にある忘れ草の女人を代表して、その端の隅の岸のほとりに住んでいる加倍仲塗の妻吉女が本書の序といたします。天明7年(1787)9月。
 左は大伴大江丸による催文と献詠句。催文「松の木の一苗、二苗といった数は問いませんので、御志によって、手向の風流の歌句をお願いいたします。催主」

  • ※1 加倍仲塗(かべのなかぬり/1769~1833)
    江戸中期の狂歌師、俳人。住吉の松苗勧進の提唱者。 江戸で油石灰を商う。天明初期に、住吉の松が枯れゆくのを惜しみ、妻吉女とともに俳人の大伴大江丸に相談し、住吉社頭に茶屋を設け、松苗勧進を開始。 松苗を献木した植主に和歌・俳句を募り、『松苗集』を奉納。
  • ※2 大伴大江丸(おおともおおえまる /1722~1805)
    江戸中期の俳人。大坂や江戸で飛脚問屋を営み、天明から寛政年間に俳壇で活躍。加倍仲塗の妻吉女の相談を受け、松苗勧進を開始。
  • ※3 『松苗集』(まつなえしゅう)
    松苗勧進の奉納歌句集で全13編14冊(住吉御文庫所蔵)。天明7年(1787)から享和3年(1803)五月までの第12編を加倍仲塗、妻吉女、大伴大江丸が勧進。

 

「甦る光景」拾遺しゅうい その1

先日出版した、水内・小出編著『住吉公園と住吉さん』では、この「歴史探訪」で取り組めていなかった地域の方々から聞き集めた記憶の語りを、テーマ別に「甦る光景」として掲載しました。7名の方から計六回、十時間以上のヒアリングについて、本書では住吉公園や大社さん、それに関わる周辺地域の回顧に限定しました。本誌では、収録できなかった話題を中心に、必ずしも直接公園に関わらない、しかし地域にとっては共有しておくべき出来事について紹介していきたいと思います。まずは大正生まれで町会として住吉公園にも関わりがあった安達氏のヒアリング拾遺しゅういからスタートします。

安達久雄氏 元粉浜商店街振興組合理事長、大正十五年生まれ

【戦時中】

安達さんは軍隊召集を経験していない数少ない方で、粉浜国民小学校を卒業後、初芝商業(現在の大阪初芝学園)の3期生として入学、少し早めて昭和19年(1944)12月卒業。「住友金属桜島のプロペラ製作所というところ。零戦のプロペラのね廻るとこの中の部品工場の係員に配属されて。この中の部品工場の係員に配属されて。で、兵隊検査はその次の年(1945)の1月頃でしたかな。大谷女学校あるでしょ。あそこ行って、検査やってる最中空襲で壕入れ言うて、壕入ったら、上、竹です簾にしてあるやつばーってひいて、出たあかんぞー言うて、中でおったんですよ。

戦争は行ってないです、技術者ということで。8月1日に住吉区役所に行って、なんで俺採らへんねん言うたら、あんた、航空機技術者なっとるからね徴用延期なっとる、って。でもなんか情報兵かなんかに当たってる言うんですよ。僕だけ残っとった。皆行きよるのにね」。

【空襲時】

日本人の若い男手がほとんど地元にいない中で、空襲や職場の回顧は大変貴重なものとなっています。「3月の大空襲は家におったけども、(夜なのに)もうとにかく昼みたいに赤うなりましたね。粉浜は国道より東側は戦災に遭うてないですよ。朝起きてから桜島の会社行くのに、歩いて難波まで行ってね、ほいだらあっこの湊町に駅あったから、あの駅で牛とか皆ようさんやられて、ほんで桜島へ行ってみたら塀に爆風に煽られて死んだ人がたくさんいて。住吉公園に逃げて来た人はおらんで、みな家で見とったんちゃうかな。飛んでたけど落としはせんかったからね。ほんで今の粉浜小学校の、市場になってるあっこのところに吉田別荘言うて別荘があったんや。あっこへあの、大阪の陸軍の偉いさんがここを宿舎にしとったな。子どもの時分そういうことあったんすわ。番兵が入り口に立っとったね。」

【8月15日】

日本橋の元松坂屋(現高島屋別館)の地下が住友の航空機分品工場だったときの回顧で、「終戦はね、日本橋の松坂屋ありますやろ、あそこの一階の売り場にずっとね、天皇陛下の玉音放送があるわけ。NHKのね、それで、売り場へずっとみんな。僕はそのとき住友金属の工場長でした。機械をみなここに入れてた。桜島から夜中にね。あの市電の通ってる道使ってあそこのとこ割って地下一階二階三階にね、機械入れてやるやつ。あそこで玉音放送を聞いたわけですよ。」

赤線は汐掛道と交差する踏切の東西に双子のように存在した洋風駅舎の西側を指す。黄色線は自由地下道の西側の入り口。下は正月用の多客時に使われた南側のホームが踏切を挟んで奥に見える。複々線区間の難波・住吉公園駅間折り返しの各停電車のホームの向こうに上町線駅が直結 赤線は、双子の洋風駅舎で現存する東側のものを指している。急行など停車した複々線本線と阪堺線の乗り換えが通しでできたので、随分賑わっている状況が駅舎内からうかがわれる。下の黄色線は西側の自由地下道の入り口か?
昭和30年代前半の小島宗治空中写真(大阪公立大学都市科学・防災研究センター)にみる住吉公園駅の構造
左下以外は泉谷勝氏提供、昭和48年撮影。左下は『南海70年のあゆみ』(南海電気鉄道株式会社、昭和32年刊)より

 

【粉浜商店街】

「結構商店街、帝塚山の方から買いにくるとか、駒川から粉浜からっていう、すごいお客さんがたくさん来られてたんですけど、多いときはそうですね、帝塚山。また南海本線やから今の堺、あの辺から何人か来はりましたわ。結構買い物して大社さんに寄って公園寄るっていうような人はあんまりなかったんちゃうかな?

アーケードつけたのは、昭和28年で、昭和52年くらいにアーケードとカラー舗装工事をやって、今のが平成16年か15年かな。できたんですかね。あれはなんぼかな、6億かかったんかな。あのアーケードにね。ほいで下の道路はあれ、1億1千万ほどかかった。あれあの、中国から大理石入れてね、あれやった。」

【住吉公園駅】

「南海の高架はあれ、工事やる前は公園側にね、バス停があったよね。駅の中の購買所のあるこっち側のとこから地下があってね、電車上走っとってホームに行くの上がるんとちごて下くぐってやったからね、踏切のところ両脇にも地下道があったんですわ。交番所の前と今のこっち側の方。地下道で通り抜けて神社入ったりしたで、子どもの時分、踏切危ないからね。横、踏切みたいに太鼓橋向かって道あったからね(上掲写真参照)。両脇に地下道あったんや。阪堺線越えて、今のお店屋になっとるとこをちょっと下へ入る。駅舎は同じのが踏切挟んで東西に二つあった。」(水内俊雄)

 

住之江公園は何故あの場所か

ー社会情勢から検証するー

住之江公園誕生は歴史探訪第4号で詳しく紹介しました。しかし、住之江公園がなぜあの場所に選定されたかはよくわかっていません。選定の経緯について、当時の大阪府議会においていろいろと議論されていますので、何があったかを見てみましょう。

【大正末期の大阪府議会での議論】

大正14年(1925)12月の大阪府議会で、知事は十五年度予算の中で住吉公園拡張について次のように説明しています。「住吉公園は市内最古の公園で、入園者四季らくえき絡繹として絶えず市内第一の公園。然るに公園の東方には南海電車線路が、西部に都市計画路線が貫通する結果、三分せられ、公園としての価値が減ずることとなり、その対策として他に土地を求め、公園を拡張する計画を立てました。現在の公園の西端敷津、加賀屋領域に適地を発見し、公園委員会に諮問した結果可決の答申を得ましたのでこれを実現することにしました。その地域に近く阪堺電鉄が敷設するため地価の急騰する傾向があるため十五年度において用地のみを買収することとし、一部を買収、一部は寄附によることとします。」この知事の説明に対し議員からは次のような疑問点が出されました。

  • (イ)昨今の財政緊縮の折りに来年度用地買収する必要があるのか。
  • (ロ)今の候補地以外に同方面に幾多候補地を捜した結果この地に決めたのか。
  • (ハ)あの付近で実際は坪当たり15円、安い所では10円の所もある。府が25円という評価を立てると周囲の地価を暴騰せしめる原因になる。

【理事の答弁】

(イ)については、理事から「(都市計画道路で分断・縮小されるので)市民の利用状況から考えて住吉公園を拡張する必要がある。公園委員会に諮り適当な土地を発見し、拡張の計画を立てた。阪堺電鉄等ができ地価が暴騰する恐れがあるためこの際(用地)買収だけを急いだ。」と説明しています。また、(ロ)については「拡張の土地は現在の公園より約十町程離れています。なるべく近いところを求めたが費用の関係と、そのほかに面積等から、又士地の位置等から考えて公園委員会に御審議いただき、結果、提案している土地が適切であるとのことで決めている。」と答弁しています。要約すれば、議員からの質問に対し、「住吉公園を拡張する必要があるから適切な土地を見つけ、地価が暴騰するのでこの際買収することにした」となります。また、候補地の比較検討については説明しておらず、複数箇所の候補地があったのかは不明で、質問に対する答えにはなっていません。この後、議員は、「公開の席で言いにくいことであれば秘密会にしてもう一歩進んだところを聞きたい」と述べ、その後秘密会が開催されたことが記されています。秘密会ですから当然議事録には記載されていません。(ハ)については「大体調査したところ(坪当たり)25円の価値があるものと認めたのでご審議願っている」と答弁しています。

このように緊縮財政にもかかわらず用地買収する必要性、拡張する場所の選定理由については議会でも明確に説明されていません。そこで今回はこの2つの点について当時の社会情勢から見たときの位置づけを解明していきたいと思います。

【当時の社会情勢】

当時は、第一次世界大戦(1914年〜1918年)の好景気から次第に景気が悪化し、昭和4年(1929)に始まる世界恐慌から昭和恐慌(昭和5年〜6年)へとつながる時期でした。

この時期に、大阪市は明治30年(1897)4月の第一次市域拡張に続いて、大正14年(1925)4月に第二次市域拡張を行い、これに伴い大正8年(1919)12月の大阪市区改正設計認可、大正13年(1924)11月の大阪都市計画事業並年度割変更認可により街路事業を進めました。また、大正11年(1922)4月には大阪都市計画区域が決定され、人口増加に伴う宅地開発が盛んに行われました。

旧住吉区(現・住之江区)について見ますと、第一次世界大戦を契機に木津川筋では造船ブームにわき大小の造船所が建設され、また粉浜、安立、墨江の3町村でも人口が増え、特に粉浜村では明治33年(1900)に大阪合同紡績住吉工場が進出し、急激な人口増加が起きました。新田開発された区域でも宅地開発が盛んに行われるようになり人口増加に拍車がかかりました。

図1 土地区画整理組合見取図
図1 土地区画整理組合見取図

 

【地図から読み解く】

図1は、現住之江区周辺が新田開発され、土地が区画整理されていく状態を名称と組合設立時期で示したものです。昭和2年(1927)10月に、阪堺電鉄芦原橋―三宝車庫前間が開通し、昭和10年代に路線沿いに区画整理組合が設立されています(茶色で着色された場所)。つまり、この鉄道整備と相まって宅地開発が進められたことがわかります。

図2 国土地理院の昭和4年地形図に住吉・柴谷・堺東部・堺西部を合成したもの
図2 国土地理院の昭和4年地形図に住吉・柴谷・堺東部・堺西部を合成したもの

 

図2は昭和四年の住之江公園周辺の地形図です。

図1の土地区画整理組合見取図と見比べますと、住吉川以北では土地区画整理組合が結成される前から既に宅地整備が行われていることがわかります。一方、南側でも御崎土地区画整理予定地の区域では水田から宅地転用前の荒蕪地に変わっていることが見て取れ、宅地開発が進められていたことがわかります。つまり、住吉川以北と、以南の御崎土地区画整理区域では宅地開発が決まっていて、公園拡張区域にはなりにくかったことがわかります。議会(ロ)の答弁では、「拡張の土地は現在の公園より約十町程離れています。なるべく近い所を求めたが費用の関係と、そのほかに面積等から、又土地の位置等」と説明しています。当時の状況を見ますと、宅地開発が行われていない水田地で、住吉公園から近いということから考えて、住之江公園の候補地はこの場所しかなかったと言えます。

また、土地区画整理組合見取図では、昭和10年代に組合結成した区域は住之江公園を囲むように位置していると見受けられます。昭和4年には既に宅地開発が進められ、その後に土地区画整理の手法で宅地開発が始まり、その中心に公園という都市施設、集客施設を持ってきたように見えます。つまり、住吉公園の拡張と言いながら、宅地開発を促進するための集客施設として住之江公園が設置されたとも言えるのではないでしょうか。このように、阪堺電鉄の昭和2年10月開通、昭和初期の宅地開発、同十年代の土地区画整理組合設立の経過から考えると、大正15年に大阪府が用地買収、公園整備を行ったことが得心できます。

【開発主体は誰?】

最後に、誰が主体で住之江公園をあの場所に誘致したのか。考えられるのは、大阪府や地主、阪堺電鉄、大阪市などです。単独か、関係者が協議して決めたのかわかりませんが、当時は鉄道会社が利用者増加のために集客施設をつくったことが良く知られています。歴史的に古いところでは、京阪電鉄の「枚方遊園」や大阪鉄道(現在の近畿日本鉄道)の「玉手山遊園地」などが知られています。関西の電鉄会社の多くは沿線の先行投機を指向しており、阪堺電鉄も本社のある住吉川電停で賃貸住宅経営を始めており同じ傾向があったようです。阪堺電鉄が主体となり、地主と共に誘致し、公園管理者の大阪府や街づくりの大阪市も関わったのかもしれません。

ただ、大阪府議会の記録では、地主からの寄附以外に鉄道会社の記述はありません。さらに、府議会で問題視された買収価格が及ぼす影響から考えますと、個人ではなく候補地付近全体の地主が公園を誘致し、集客施設の公園整備による地価の上昇を狙ったとも考えられます。つまり、大阪府が公園用地を探していた時と合わせて、多くの地主が主体となり阪堺電鉄と共に公園を誘致したのではないでしょうか。(荒木美喜男)

 

 

住吉公園と住吉さん〜住吉大社から生まれて150年

住吉公園と住吉さん〜住吉大社から生まれて150年

本書の構成

  • 第一章 住吉大社と住吉公園
  • 第二章 絵図や古写真からひもとく風景
  • 第三章 まちの成り立ちと発展の中で
  • 第四章 都市公園としてのあゆみ
  • 第五章 植生や地形からみえる風景
  • 甦る光景 八名の方から聞く地域の戦前・戦後
  • 住吉公園・住吉大社の歩み(関連年表)

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問い合わせ:住吉公園 管理事務所(06)6671-2292
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発行:

都市公園住吉公園指定管理共同体
(株式会社美交工業・NPO法人釜ヶ崎支援機構)

お問い合わせ:

住吉公園管理事務所 電話 06-6671-2292

編集委員:

水内俊雄(代表、大阪公立大学)、小出英詞(住吉大社)
寺田孝重(苅田土地改良記念コミュニティ振興財団)
繁村誠人(NPO法人 国際造園研究センター)
櫻田和也(NPO法人 remo記録と表現とメディアのための組織)
荒木美喜男(大阪府庁公園OB)