「住吉公園歴史探訪」第23号
- 2025年 6月11日(水) 17:54 JST
住吉公園150年記念事業
「住吉公園歴史探訪」第23号
発行日:2025年6月1日
(季刊:3月・6月・9月・12月発行)
明治6年に開設して150周年を迎えた大阪府営住吉公園の歴史探訪誌として、2018年12月から季刊で第16号まで発刊してまいりました。2023年7月刊の『住吉公園と住吉さん』編纂による一時休止後、2023年12月より再刊しました。ぜひとも住吉公園、大社界隈の悠久の歴史地理をご堪能ください。
編集委員 寺田孝重さんを偲んで
本誌編集委員で、農学博士、一般財団法人苅田土地記念改良コミュニティ振興財団・代表理事の肩書をお持ちの寺田孝重さんが、去る三月一日、ご逝去されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
寺田先生が本誌の編集委員をお引き受けくださったきっかけは、下載の「狭山池水系大絵図」の撮影にあります。編集代表の私が平成28年(2016)当時、大阪市立大学地域連携センターの副所長として、大学と地元との交流を進めるなかで寺田さんと面識を得て、この絵図撮影が実現したことが始まりでした。
大阪府営住吉公園の管理者である福田久美子氏から、住吉公園開設150年記念事業として、公園の歴史にまつわるフリーペーパー発行の相談を受け、寺田先生との出会いやこの絵図の存在を思い出して相談したところ、住吉公園関連の測量図や文書の存在を教えていただきました。平成30年(2018)5月に、住吉大社の当時権禰宜・小出英詞氏や、NPO法人国際造園研究センターの繁村誠人氏とともに、苅田土地改良記念会館にて初めての意見交換を行いました。写真はそのときのひとコマです。寺田家に継承される十六世紀末から江戸~明治に至る文書群である「寺田家文書」に記された情報の豊かさに圧倒され、フリーペーパー実現への期待が一気に高まったことを今でも鮮明に覚えています。
同年12月には、季刊『住吉公園歴史探訪』(全4面)として刊行が実現しました。誌面では、寺田さんがご専門の植物と地域文化を関連付けた内容で、本企画を豊かに彩ってくださいました。今回はご令室・菜摘様へのインタビューも交え、寺田さんを偲ぶ一文といたします。(水内俊雄)

(解説)狭山池および石川・東除川・西除川を中心とした、和泉・河内・摂津の三国にまたがる水系図で、新大和川が描かれていないことから、元禄以前の江戸初期に作成されたものと推定される。狭山池博物館の資料によると、類似の絵図が大依羅神社などにも現存しており、原図はこの水系に入る村々で所蔵されていたものと考えられる。とくに本絵図は、裏書にあるように、元禄16年(1703)に行われた大和川付け替えに対する反対運動の資料として使用されたもので、付け替え予定の川筋が白い紙で貼り付けられており、生々しい様子を伝えています。 寺田家文書・絵図編

この絵図は、元禄16年(1703)4月6日 堤御奉行である万年長十郎様と小野朝之丞様が、以前行った川筋(河川の流れや堤防)調査に関連して、訴状および絵図を提出した際の控えとして残されたものです。
一、巡見使として派遣されていた稲垣対馬守様・荻原近江守様・石尾織部様・安藤筑後守様が大坂に滞在中の5月19日に、訴えを申し立て、荻原近江守様に絵図と訴状を提出しましたが、受理されず返却されました。
一、5月26日、万年長十郎様が大坂町奉行に対して正式に訴訟を申し立て、絵図と訴状を提出しましたが、これも閲覧されたうえで返却されました。
植物や地域文化へのご造詣
『住吉公園と住吉さん』(東方出版、2023年)では、寺田さんの原稿をまとめて第5章「植生や地形から見える風景」を設けています。寺田さんが常に仰っていたのは、「住吉と松」であり、マツについてはまだまだ原稿をお願いできそうなご様子でした。縄文海進にまでさかのぼり、上町台地の基本植生がマツであり、それがまるで巨大な天橋立のようであったこと、「松と鳥居」があれば社殿がなくとも住吉大社を想起させること、そうした松の風景が絵画・文学・工芸の中で長く描かれてきたことなどを、絵図や写真とともに紹介してくださいました。(下絵図・写真参照)

上町台地崖沿いに描かれた松、右絵図はテヅカ山(帝塚山)の隣にキシノヒメ松(岸の姫松)、左絵図は下写真に実景の聖天山や天下茶屋の松が描かれ、その下方に天下茶屋集落、背景に生駒・信貴の山影が描かれています。
浪華新丘圖(1839年)、日文研所蔵地図データベースより
「御田」の雑草群の連載
さらに印象的だったのは、住吉大社の「御田」に見られる植物への着眼です。古代より神事として守られてきた水田である「御田」には、非常に貴重な植物相が残されており、農耕地は同じ場所で同じ技法により作り続けられることで、周囲の環境が変わってもそこの植生は変わらず育まれる、その典型が「御田」に随伴する雑草群であるという視点から、ハコベを起点とする連載が始まりました。
随所にエピソードを交える魅力的な筆致で、七草のオギョウ、ホトケノザ、ナズナ、セリ、スズナ、スズシロへと話題が続き、その中でなぜかヒガンバナが欠けていることにも触れられました。
水辺の植物の連載
住吉区の「区の花」であり、浅沢社での群生でも知られるカキツバタや、低山地や社叢に見られる卯の花といった植物も紹介されました。連載では、大阪市の市章「みおつくし澪標」が、葦原の中の水路を示す表示板に由来するところから始まった、水辺の植物シリーズも印象的でした。アシ・ヨシの紹介(第18号)、マコモ(第19号)、ハス(第20号)、ガマ(第21号)へと続きます。次号で取り上げると言われた、チガヤがどのような内容になったのか知ることは叶いませんでしたが、カサスゲ(第22号)が最後の原稿となりました。
この連載の魅力は、こうした水辺の植物が工芸品や生活用品、宗教的用途として重宝されていたこと、こものなりねんぐ小物成年貢という雑税として、寺田家文書に関係する村々にその記録が残されており、その解説が付されたことでした。
アシについては、庄屋を兼務していた七道村の年貢として文書で紹介されており、絵図、文書を用い、手水川との関連に触れられました。
マコモについては、依網池周辺での生育が多く、我孫子村との間で税金をめぐって争われた調停文書が紹介されました。
ハスについては、依網池の絵図に、池の象徴として見事に描かれた蓮花の姿が印象的でした。住吉大社の池とも深く関わる植物です。
最後のカサスゲについては、浅沢社の祓神事に使用する神菅としての試験栽培を始められた経緯が語られました。
寺田さんのキャリア
令和7年(2025)4月14日、本誌にて寺田さんの追悼記事を執筆させていただくにあたり、奥様の寺田菜摘様に、寺田さんの思い出についてインタビューをさせていただきました。告別式の際、奥様が喪主として述べられた弔辞の言葉に深く感銘を受け、77歳にてお亡くなりになってしまわれた寺田さんのことをもっと知りたいという思いが強まったことも、このインタビューの実施の背景にありました。
インタビューでは、寺田さんが開発された「天平茶」を、茶道の師範であられる奥様から頂きました。寺田さんは、静岡大学農学部大学院を修了された後、奈良県庁の茶業試験場に就職されたこと、東大寺の社領における茶園の存在から、茶花の研究にのめり込まれていったご経緯などが語られました。そして平成7年(1995)、名城大学より「奈良県における茶業発達過程の研究」という学位論文で博士(農学)を授与されたこと。興味を持たれたことには根気強くく取り組まれ、苅田村寺田家文書研究会を立ち上げられ、膨大な寺田家文書の整理に尽力されました。※1
寺田家はかつて高槻藩の所領でもあり、明治維新期に土地を没収され、田畑を失ったため、代々サラリーマン家庭で育たれました。怒った顔を見せたことがない穏やかで柔らかな人柄で、当初は地域とのつながりが殆どなかったにもかかわらず、退職後は、地域社会に自然に溶け込んで活躍され、財団の代表理事に就任されたことを、奥様は温かく振り返られていました。 寺田家文書の持つ意味や、そこから見える住吉の歴史、さらには住吉公園との関係についても、さらに探ってみたいと思います。(水内俊雄)

上田貞治郎写真史料アーカイブ(大阪公立大学)に見られる天下茶屋(左)、聖天山(右)の松樹、編集部にて着色。
原版では、野々村藤助アルバム、明治34年とあり、「天下茶屋近傍」「聖天山麓 三月一日」との説明がある。
明治初期の公園管理3(大阪府の場合)
本誌第21号で地方の公園申請と、それに対する国からの指令を見てきました。国の指令は実測平面図と管理規則の提出でした。記録はありませんが、大阪府に対しても同様の指令があったと考えられます。明治6年(1873)9月に大阪府の公園地規則が作成されており、大蔵省に送付されたと思われます。ただ、この公園地規則は大阪府布令集には記載されていませんので、法令として認知されていないことになります。それでは大阪府は何に基づいて公園を管理していたのでしょうか。
本誌第22号で述べたように、大阪府は明治7年(1874)1月に東京府に対して公園管理についての問い合わせを行っています。
一、公園地ノ義御取扱向、都テ於二御府ニ一御取締有レ之候哉ノ事。
附、其品ニ寄リ神官僧侶ニ而取扱候儀モ有レ之候ヤ。
右品々其取扱之廉承知致度候。(公園地の取り扱いについて全て府で行っているのか、もし神官僧侶に取り扱わせているものがあればどういう点か教えてほしい)
二、公園地ノ内ニ於テ、或ハ茶店等取扱又ハ遊芸興行之為メ、小屋掛等取設候節ニハ、適宜ヲ以相当ノ税金御取立相成候ヤノ事。
附、右御取立ノ税金ハ、公園地手入等ノ入費ニ加充相成候ヤ、又ハ上納ニ相立、公園地入費ハ別途御下渡相成候ヤ、其辺モ承知致度候。(公園地内において茶店、遊芸の小屋掛け設置に対して税金の取立てを行っているのか。税金は公園地手入れの入費のそのまま充当しているのか、または上納して別途下げ渡しになるのか教えてほしい)
三、公園地ト社寺現在ノ余地境界区別相立居候義ハ勿論ニ候得共、多分地価ノ場所又ハ入組ノ場所等自然可レ有レ之歟。右ニ付御取扱向有レ之候ハヾ致二承知一度候事。(公園地と現在の寺社境内の区域は調整されていると思うが、地価の高いところや入組みに対し、その取り扱いについての考え方があれば教えてほしい。)
四、公園地、郡村市街ノ内ニ有レ之ニ就テハ、担当ノ官 員御差遣候義モ有レ之候ハヾ承知致度事。(公園地 が郡 村市にある場合、担当官員を差し遣わしているのであれば、どのようにされているのか教えていただきたい)
五、公園地内樹木名石其外藪松林等モ有レ之、見廻リノモノ御申付置有レ之候ハヾ、給料又ハ御手当被レ下等ノ義モ致二承知一度候事。(公園地内の樹木、施設の見回りに人を割り当ているのであれば、給料、手当はうしているのか教えてほしい)

明治8年(推定) 大阪府第7大区二小区地位同等之耕作地絵図群のひとつです。同8年10月に行われた測量により公園地と住吉大社に分離されますが、この図面では同6年8月の公園地として指定された状態であり、測量図面が本省に承認される同9年または大阪府戸籍課に登録される同10年までの間のものと思われます。
ここでは、公園管理の在り方、公園地と寺社境内との境界の考え方を聞いています。
次に内容を詳しく見ていくことにします。最初に東京府の管理の考え方を聞いています。大阪府の公園地規則を見ますと第一条で公園地に住まう神官僧侶に公園の総取締的な役割を行うように書かれています。これが当初の大阪府の考えで、従来の寺社境内の管理をそのまま引き継いだものと思われます。また、公園の取締りを東京府で行っているのかと聞いていることは、すなわち大阪府では府が直接行っておらず、神官僧侶に従来通りの管理を任せていたと考えられます。四番目に郡にある公園地に担当官員を派遣しているのかを聞いています。最初の問い合わせとも関連しますが、公園の総取締を神官僧侶に割り振りしていた大阪府では、官員の派遣を行っていなかったと考えられます。
二番目に公園地貸地の税金(区入費)の取り扱いについて聞いています。明治政府は明治6年7月の地租改正に先立ち、同年3月に「地所名称区別」を布告、翌7年11月に改正され、公園は官有地第3種に位置付けられました。そこでは「
地券ヲ発セズ地租ヲ課セズ、区入費ヲ賦セザルヲ法トスル。但人民の願ニヨリ右地所ヲ貸渡ス時者、其間地料及ビ区入費ヲ賦スベシ
」と規定されており、地料とは別に区入費(地方税)の設定を認めています。
区入費は税金であるため、本来であれば大阪府税として納められたのちに、費目を決めてから支出すべきものです。このとき、大阪府が敢えて聞いたということは、区入費を府税として納めずに、公園の維持管理費に使用していた可能性があると考えられます。
三番目に公園地と寺社境内地の区分けについて聞いています。明治6年(1873)8月に、住吉大社の全域が公園に指定されました。その後、同8年(1875)3月、同年10月の二度にわたる現地測量を行い、住吉大社境内地と公園地に分離されています(本誌第1号参照)。このことから、全域が公園地に指定されたことで、住吉大社の神事に何らかの影響が生じたと考えられます。寺田家文書には、同6年(1873)当初の公園区域、周辺民地の地価や田畑の石高を記した図面が残されています(図①)。
この図面から公園地を指定するとき、なぜ大社境内地から田畑や宅地を民地として下げ渡し除外したか、当時の大阪府の考え方がうかがえます。
最後に公園の見回りの者に対する給料について聞いています。公園地規則では、掃除人に対する給料の記載はあることから、ここで聞いているのは公園管理の取締人のことで、すなわち神官僧侶に対して給料を支払っているのかを聞いているものと考えられます。住吉大社がこれまで管理していた従来通りの方法であれば、神官僧侶に給料を支払う必要がないと考えられていたのではないかと思われます。
このように、公園管理に対して当時の大阪府は試行錯誤していた様子が見て取れます。
この大阪府からの問合せに対して、東京府は公園管理、特に公園地の貸し出しについて政府との間で意見の相違があり、大阪府に対して回答できる状態ではなかったため、「いまだ確たる方策とてもなく、民間の請負を考慮中である」として、代わりに商工会議所の経営案を送付しています。
つぎに、明治七年以降の大阪府の公園管理について、実測図面と条例作成について見ていきます。
測量図面の作成については、先に述べたように明治8年(1875)10月に行われています。作成された実測平面図は、住吉大社文書によると「本紙繪図面大阪廳ヨリ本省江伺ニ相成 明治九年一月廿四日 伺之通り指令済ニ相成候旨 同10年2月3日於府廰戸籍課承知之(本測量図面を大阪府庁より本省へ伺いを立て、明治9年1月24日に伺の通り承認されたことを、同10年2月3日府庁戸籍課においてこれを確認)」とあり、国に承認され、新しく公園地が確定したことがわかります(図②)。
一方、公園管理に関する条例が初めて大阪府布令集に記載されたのは、同15年(1882)10月13日の公園地内取締規則と、同月26日に出された公園取締人心得です。この規則と心得が内務省に認められた最初のものであると考えられます。本誌第22号の「神職による公園地取締人」にあるように、同7年(1874)に住吉大社から公園地取締人を選出し大阪府へ届け出ていますが、大阪府からの正式な辞令が同17年(1884)9月16日となったのは、同7年時点は大阪府に辞令を出す規則がなかった為と考えられます。この時期は公園管理をめぐって政府と東京府の間には意見の相違があり、同8年2月になって公園地に貸地を認めることで決着を見ます。具体的な公園地貸地の規則としては、同11年(1878)10月8日に作成された東京府公園地内出稼仮条例で、国に初めて条例として認められたものと考えられます。東京府は、この条例に基づいて浅草公園から公園地の整理、整備に着手していくことになります。
当然この間においては、地方からの公園管理規則に承認の返答がなかったと思われます。この後、大阪府は東京府公園地内出稼仮条例を参考に、公園地内取締規則を作成しています。その他の都市でも同様に、東京府の条例を参考にした規則が作成されたと考えられます。
これにより、明治9年(1876)1月24日の公園区域の確定、同15年(1882)10月13日の公園地内取締規則の施行により、大阪府における実質的な公園管理行政の第一歩が始まった事になります。
最後に、東京府公園地内出稼仮条例と大阪府の公園地内取締規則の関連性を見るために、条例と規則を記しておきます。(荒木美喜男)

住吉大社に残されている冊子で、表書きに「明治六年八月 旧社地之内上地之区別書 住吉神社主典 橋本光全」とあり、同6年の公園指定から同8年10月の公園地と住吉大社分離の経緯が分かる書類としてまとめられています。図は測量図が本省に送られた内容を記したものです。
東京府公園地内出稼仮条例(明治11年10月8日)
第一条 凡ソ公園地内ニ出稼セムト欲スルモノハ建家築造の模様等詳細図面ヲ作リ地所拝借ノ義願出ヅベキ事 但公園ハ衆庶偕楽ノ場所ナルヲ以テ建物ハ成丈ケ雅致ヲ添ヘ景色ヲ損セサル様注意可致且ツ落成ノ上ハ掛リ官員ノ検査ヲ受クベキ事
第二条 本庁ニ於テハ詮議ノ上実施差支ナク且園内ノ繁盛ヲ助クヘキモノト思量スレバ相当の借地ヲ許可スベキ事
第三条 借地許可後三十日以内ニ現場着手セザルモノハ直チニ返地セシムベキ事 但借地料ハ居住ノ有無ニ不拘第十二条ノ割合ヲ以テ徴収スベシ
第四条 借地ノ内タリトモ建物ヲ自侭ニ取拡グルハ勿論模様替ト雖モ許可ノ上ニ無之テハ着手不相成事 但雨漏修繕は此限ニアラズ
第五条 出稼ノ家屋ヘ他住居同様垣墻ヲ周ラス等ハ固ク不相成筈ナレドモ実際止ヲ得ザル場合有之ニ於テハ出願ノ上掛官員ノ差図ヲ受クベキ事
第六条 出稼常住人ノ外ハ一切宿泊不相成事
第七粂 常住出稼人其人員姓名居住後三日間ニ可届出事 但出入共其都度届出ベシ
第八条 夜間ノ営業ハ当分午後十二時限ノ事
第九条 借地内ト雖モ立木ハ其大小ヲ不論伐採或ハ植替等一切禁止ノ事 但私費ヲ以テ樹木植栽致度節ハ其時々可伺出事
第十条 借地内ハ勿論其近傍ト雖モ借地人ニ於テ時々草取掃除致シ不潔ナラザル様注意可致事
第十一条 借地内ノ溝渠ヘ塵芥ヲ棄テ或ハ淤泥ヲ停滞セシムル等大ニ健全ヲ害スルヲ以テ各自深ク注意シ毎月一回出稼人申合掃除スベシ且ツ強風ノ節ハ勿論常ニ往来ヘ水ヲ灑ギ塵埃飛散セザ様可致事
第十二条 借地料ハ十五日以前許可ノモノハ全月分十五日以後許可ノ者ハ下半月分ヲ上納可致事 但返地モ本文同様十五日前後ヲ以計算スベシ
第十三条 借地料ハ毎月廿八日限リ無相違区務所ヘ可差出事
第十四条 地所借用ノ儀一旦許可スト雖モ園中都合ニ因リ引払ノ儀相達候節ハ其種類ニ応ジ日数二十五日以上五十日以内ニ建家取毀チ元形ニ直シ返地可致事
第十五条 借地転貸スルハ厳禁タリ故ニ私費建設ノ家屋売買ハ本人ノ自由ニ任スト雖モ其侭後任者ヘ譲渡サント欲スルトキハ双方連署以テ返地更借トモ速ニ可願出事 但取毀チ売買ハ其時々届出ベシ
第十六条 園内ノ清潔ナルト家作ノ之ニ称ヒ営業ノ其当ヲ得ルトハ最モ繁盛ヲ来ス所以ノモノナレバ臨時出稼人集会協議シ取締方及ビ実際有益ノ事業ト見込候件ハ区務所ヲ経テ府庁ヘ開申スベキ事
第十七条 前条ノ趣意ニ違背スルモノハ日数十日以上二十日以内ヲ限リ引払可申付事
(大阪府)公園地内取締規則(明治15年10月13日)
第一條 凡ソ、公園地内ニ於テ營業ヲ爲ント欲スル者ハ、別紙願書式ニ據リ建家築造ノ模様等詳細圖面ヲ作リ、地所拝借ノ義戸長及公園取締人奥印シ、郡區役所ヘ可願出事
第二條 公園ハ、衆庶偕楽ノ場所ナルヲ以、建家ハ成丈ケ清潔ヲ要シ、風景ヲ不損様注意致、且建物落成ノ上公園取締人ヲ經テ郡區役所ヘ可願出事
第三條 借地許可後三十日以内ニ現場着手セサル者ハ、直ニ返地セシムベキ事 但、借地料ハ居住ノ有無ニ拘ラズ、第十一條ノ割合ヲ以テ徴収スベシ
第四條 借地ノ内タリトモ建物ヲ自儘ニ取擴クルハ勿論、模様替ト雖ドモ許可ノ上ニ無之テハ着手不相成事 但、雨漏修繕ハ此限ニアラズ
第五條 營業ノ家屋ヘ他ノ住居同様垣墻ヲ周ラス等ハ固ク不相成筈ナレドモ、實際不得止場合有之ニ於テハ更ニ可願出事
第六條 常住ノ營業人ハ、其人員姓名ヲ居住後三日閒ニ可届出事 但、出入共其都度届出ベシ
第七條 營業常住人ノ外ハ、一切宿泊不相成事
第八條 夜間ノ營業ハ、午後十二時限ノ事
第九條 借地内ト雖ドモ、立木ハ其大小ヲ不論、伐採或ハ植替等一切禁止ノ事 但、私費ヲ以テ樹木植栽致度節ハ、公園取締人及ビ戸長奥印ノ上郡區役所ヲ經テ當廳ヘ可願出事
第十條 借地内ハ勿論、借地内ノ溝渠ヘ塵芥ヲ棄テ、或ハ淤泥ヲ停滯セシムル等、各自深ク注意シ、毎月1囘營業人申合掃除スベシ
第十一條 公園借地料ハ、敷地一坪ニ付一ヶ月金貳錢ヅヽトシ、十五日以前許可ノ者ハ、全月分十六日以後許可ノ者ハ下半月分ヲ上納可致事 但、返地モ本文同様、十五日前後ヲ以テ計算スベシ
第十二條 借地料ハ、毎月廿八日限公園取締人ヲ經テ郡區役所ヘ差出スベシ
第十三條 公園借地一旦許可スト雖ドモ、萬一園中ノ都合ニ依リ引拂ヲ命スルトキハ其種類ニ應ジ、日數三十日以内ニ建家取毀チ元形ニ復シ返地可致事
第十四條 前條借地ヲ轉貸スルハ嚴禁タリ、故ニ私費建設ノ家屋賣買ハ本人ノ自由ニ任スト雖ドモ、其儘後任ノ者ヘ讓渡サント欲スルトキハ、雙方連署第一條ノ手續ニヨリ返地更借トモ可願出事
第十五條 公園内ニ迷人又ハ變死人アルトキハ、直ニ取締人戸長ノ中ヘ通知スベキ事
第十六條 前條々ノ趣意ニ違背スル者ハ、日數十日以上廿日以内ヲ限リ引拂可申付事
発行:
都市公園住吉公園指定管理共同体
(株式会社美交工業・NPO法人釜ヶ崎支援機構)
お問い合わせ:
住吉公園管理事務所 電話 06-6671-2292
編集委員:
水内俊雄(代表、大阪公立大学)、小出英詞(住吉大社)
寺田孝重(苅田土地改良記念コミュニティ振興財団)
繁村誠人(NPO法人 国際造園研究センター)
櫻田和也(NPO法人 remo記録と表現とメディアのための組織)
荒木美喜男(大阪府庁公園OB)