「住吉公園歴史探訪」第26号
- 2026年 2月27日(金) 15:41 JST
住吉公園150年記念事業
「住吉公園歴史探訪」第26号

発行日:2026年3月1日
(季刊:3月・6月・9月・12月発行)
明治6年に開設して150周年を迎えた大阪府営住吉公園の歴史探訪誌として、2018年12月から季刊で第16号まで発刊してまいりました。2023年7月刊の『住吉公園と住吉さん』編纂による一時休止後、2023年12月より再刊しました。ぜひとも住吉公園、大社界隈の悠久の歴史地理をご堪能ください。
松尾芭蕉の句碑型燈籠
住吉公園には松尾芭蕉の俳句を刻んだ石燈籠があります(2面写真)。
升買うて分別かはる月見かな
場所は、園内の「花と水の広場」の南東、「香りの小庭」の北側、汐掛道の南脇です。
この燈籠は、芭蕉が住吉大社に参詣して月見の句を詠んだことを記念し、江戸末期の俳人たちが当時の住吉大社の松原に建立したものです。こうかん巷間の刊行物には「芭蕉の句碑」と紹介されることが多いですが、正確には住吉大社への奉納石燈籠の1つです。
芭蕉の住吉詣
元禄7年(1694)9月13日、芭蕉は住吉大社に参詣しました。旧暦の9月13日は「十三夜」にあたり、名月を仰ぐ日です。住吉大社ではこの日に宝之市神事が行われ、境内では相撲会が催され、さらに「升の市」と呼ばれる市が立ち、大変に賑わったそうです。現在の宝之市神事・升の市は10月17日に行われています。
この神事は、神功皇后が海外から持ち帰った品々を住三浦で人々に分かち与えたという伝説に由来します(『住吉松葉大記』)。これが商都大阪の「市」の始まりとも伝えられています。神事では、腰に注連縄をまとった力士による相撲会、競馬、芝能などの諸芸が奉納され、商売に欠かせなかったます桝(升)を売る「升の市」が催されていました。
ちなみに、近世以前は桝の規格は統一されていませんでしたが、住吉の桝は信仰と信用に基づいた一定基準の計量桝として人々に求められていました。
さて、この日に住吉を訪れた芭蕉は、月見の句会に招かれていました。しかし、体調を崩していたため参加を辞退し、それを詫びて、この句を詠んだと伝えられています。句には、住吉の市で升を買ったところ分別が変わり、物事を推し量ることで心持ちが変化したので句会に欠席したその言い訳を巧みに詠んだものです。
住吉における芭蕉の消息
芭蕉本人が弟子の水田正秀に宛てた書簡(元禄7年9月25日付)には次のように記されています。
十三日は住よしの市に詣でゝ、
升買うて分別かはる月見かな
壱合升一つ買申候間、かく申候。
少々取込候間、早筆御免。
九月廿五日 芭蕉
さらに、蕉門十哲の1人である高弟・各務支考の『笈日記』には、同行者として詳しく記載されています。
今宵は十三夜の月をかけてすみよしの市に詣けるに昼のほどより雨ふりて吟行しづかならず、殊に暮々は悪寒になやみ申されしかその日もわづらはしとて、かいくれ帰りける也。次の夜はいと心地よしとて、畔止亭に行て、前夜の月の名残をつぐなふ。住吉の市に立てといへる前書ありて。
升買て分別かはる月見かな 翁
これらによれば、芭蕉は当時悪寒に悩まされており、さらに昼から雨が降ったため体調が優れず、十三夜の月見の句会には「わづらわし」(具合が悪い)と言って参加せずに帰ったとのことです。しかし、翌日には小康状態となり、義理を立てて、長谷川畦止 の亭での句会に出向き、前夜の代わりにこの句を詠んだそうです。
そもそも芭蕉が大坂を訪れたのは、弟子の濱田洒堂と槐本之道 の争いを仲裁する目的があり、この月見の句会も両者の和解を促すために催されたものでした。とはいえ、芭蕉自身の体調は思わしくなく、大坂滞在中には病に伏してしまいました。
住吉祈願と芭蕉の客死
その後の様子については、弟子の広瀬惟然の手記に詳しく記されています(滝沢馬琴『俳諧歳時記栞草』所引)。
それによれば、芭蕉は10月8日にはすでに食事も摂れなくなり、門弟たちはただ心配するばかりでした。この時、高弟の向井去来 の指示により、師の病気平癒を「住吉大明神」(住吉大社)に祈願するため、槐本之道らが使者として立ち、樹采女 という神職に祈祷を依頼しました。その際に俳句の献詠も行われています。
・峠こす鴨のさなり細鳴や諸きほひ (内藤)丈草
・木がらしの空見なほすや鶴の声 (向井)去来
・起さるゝ声もふれしきたんぽ湯婆かな (各務)支考
・足かろに竹のはやしやみそさゞひ (広瀬)惟然
しかし、その甲斐もなく、門人で医者の望月木節 が診察したときには、脈は弱く、発熱や下痢が続き、病状はかなり悪化していました。木節は他の医者や薬方を求めるよう勧めましたが、芭蕉はすでに覚悟を決めていたようで、自身の呼吸が続く限り、このまま木節の処方に頼りたいとの希望を示したそうです。
そして10月12日、大坂の南御堂(難波別院)前の花屋仁右衛門の裏屋敷において、芭蕉は51歳の生涯を閉じました。
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
この辞世の句は、ひろく知られるところです。
芭蕉句を刻んだ石燈籠
芭蕉の没後170年にあたる元治元年(1864)、浪花月花社中の19名の俳人たちが芭蕉を敬慕して、住吉大社の松原の中に「升の市の月見」の句を刻んだ句碑型の石燈籠を奉納建立しました。
昭和15年(1940)の梅原忠治郎「升買ふての碑に就て」(『上方』119号)によれば、「当初の位置からずつと東の現地へは、先年移された」とあります。また、本紙第6号でも紹介した、明治初年の古老の記憶による手稿図「住吉神社前附近(明治初年)」には、公園の南側に描かれているので、元は現在地よりも南西にあったと推測されます(移設の時期は不明)。
燈籠の右面には「献燈」の文字が刻まれていることから、単なる句碑ではなく、住吉大社の石燈籠の1つとして奉納されたものでした。特に正面に刻まれた俳句の上部には丸い穴が穿 たれており、灯明を点せば満月のように見える趣向となっています。
また同面には建立者として「隺歩」、背面にも「発起 隺歩」と記されており、彼が建立の中心人物と思われます。これまで地誌等で誤って「霍歩」と紹介されてきましたが、碑文には間違いなく「隺」(鶴の俗字)と刻まれています。この隺歩については、明治26年(1893)に書かれた「浪華枯野巡り巡拝記」(北枝堂似水・津田柳眉子、『浪華草紙』第3集所載)で次のように記されています。
住吉の松原汽車踏切少し西南側
升買ふてふん別かはる月見哉
こハ元治甲子の年春園鶴歩叟月花社員と計りて建る所なり
春園鶴歩という人物が俳人仲間と結成した浪花月花社の社中で相談して建立したとあります。これは鶴歩の息子である俳人・山本鶴畝 から直接聞いた話とのことです。さらに、当時の俳人に流行した大阪の芭蕉足跡をたどる「浪華枯野巡り」も、その鶴歩によって始められたことを説明しています。これによって、碑銘にある「隺歩」とは、春園鶴歩であったことが判ります。
参考までに、明治20年(1887)の『俳家瓢之種』によれば、春園鶴歩は蕉門10哲の立花北枝の門流の俳人で、当時は名の知られた人物でした。また、宇田川文海(明治・大正期の大阪を代表する新聞記者・小説家)による「朝日新聞創刊以前の大阪の新聞」(『宇田川文海喜寿記念』大正14年[1925])には、
山本與助(俳名鶴歩、貸本商俳諧の宗匠)
山本全9(與助氏弟、俳諧の宗匠)
とあり、鶴歩は貸本屋の山本與助のことで、弟の山本全9とともに俳句の宗匠であったことが分かります。貸本ばかりではなく、出版も数多く手がけていたようです(大阪府立中之島図書館所蔵『大坂本屋仲間記録』ほか参照)。
背面には、建立年月日と鶴歩以下19名の俳号が列記され、碑面には住吉にちなむ松の枝葉が刻まれています。さらに、寄進取次として住吉大社の神職・山上金大夫 の名があります。金大夫は住吉大社の石燈籠の取次として最も多く登場する人物です。
芭蕉が来訪した宝之市神事は現在も行われており、升の市は平成8年(1996)に再現され、本年(令和8年)で復活30年を迎えます。これにちなみ、前後の週末には桂米朝1門による住吉寄席が催され、また日曜には相撲会にちなむ学生相撲大会も開催されています。
かくして、芭蕉の名句が刻まれたこの燈籠は、俳聖の足跡を示すとともに、住吉公園の象徴的な存在となって利用者に親しまれています。 (小出英詞)
[参考資料]
『すみよっさんの境内と石燈籠』(清文堂出版、令和5年)
枚岡公園 大屋霊城が手掛けた最後の公園
本紙第25号で紹介しました大屋霊城 は、住吉公園の改修後も、住之江公園の建設、箕面公園の拡張工事などに携わり、府営公園で功績を残されています。晩年には府営枚岡公園と山田公園を手がけましたが、大屋霊城はこれらの公園の完成を見ることはありませんでした。
大屋霊城と枚岡公園の関わり
昭和8年(1933)の大阪府議会において、当時の知事(縣忍 )(注1)が明年度に山田公園と枚岡公園の2公園を建設する旨を表明しました。1つは大阪北部の3島郡山田村の丘陵地約10万坪に運動施設を中心とした遊歩公園と、もう1つは大阪東部にある枚岡神社1帯に山野約13万坪の自然公園をつくるというものでした。
このうち枚岡公園の用地は約5万坪の府有林と、地元村からの寄附によるもので、これを同9年、10年の2ヶ年計画の事業とし、明年度は拾貳萬5千圓を計上し整備するという内容でした。
2公園の竣工は、山田公園が昭和10年(1935)6月に、枚岡公園は同12年(1937)12月でした。両公園の設計を任された大屋霊城はすでに亡くなっていたため、住吉公園の改修工事や住之江公園の新設工事のような工事報告書が残されておらず、建設前の状況、建設目的、詳細な施設内容は分かりません。ただ、両公園とも整備当初の平面図だけが残されており、これからいくばくかの建設目的や建設内容をうかがうことができます。
今回は枚岡公園の区域、施設内容、建設目的と時期について見ていくことにします。
枚岡公園の区域
図①は、枚岡公園開設時の平面図です。右下の黄色に着色された区域が枚岡神社です。その東側(図の上側)の山全体が府有林で枚岡山と呼び、府有林の東端(図の上端)に神社の御神体「神津嶽」があります。図面では表示されていませんが、枚岡神社と山上の神津嶽を結ぶ参道が枚岡神社の敷地となっており、公園は神社の一部を借地しています。公園区域は、枚岡山とその北側にある額田山一帯となります。
枚岡公園の施設
公園の平面図を見ますと、園路が枚岡山、額田山全体に配置されており、この公園は散策やハイキングが主な利用形態であったと考えられます。神社の隣にある梅園は、もともと神社の施設でしたが、公園開設に合わせて大阪府に管理を委託され、公園施設になりました。岩石園(図には岩園と表示)は公園の中央を縦断する暗街道(暗越奈良街道、現国道308号)沿いにある岩石園で休憩所も設置され、街道をゆく人に公園の存在をアピールしているようです。
公園全体を見ると、北側の額田山には遊戯場や大展望台、桜ヶ原などの活動を伴う動的な施設が配置されています。一方、枚岡公園南側の枚岡山にはこういった施設は配置せず、枚岡神社を含めた静的な空間としています。この南側の静的空間、これこそが枚岡公園建設の本来の目的ではないかと思われます。
次に、なぜこの時期に公園建設を行ったのかを見ていくことにします。
枚岡公園建設のきっかけ
公園の計画が検討される前、神社境内林の整備が行われます。これが、公園が建設されるきっかけとなります。
昭和元年(1926)夏、内務省嘱託員の本郷氏による枚岡神社境内整理のための調査が行われ、この調査結果をもとに、枚岡神社境内林整備計画が立てられました。この計画には、将来神苑の尊厳と清浄とを維持するべく、主要な神苑を5項に分けて取り扱うことが示されています。境内林の整備区域は拝殿の前面参道付近と梅園(梅菀)全体とし、本殿後方の神域は手を入れないものとして整理されました。
第1 北森林地
第2 南森林地
第3 社務所移設跡地整理
第4 梅菀の整理
第5 参道の整理
この整理工事は昭和2年(1927)から同4年(1929)迄2ヶ年で行い、その事業費は氏子及び一般崇敬者の寄付金によるものされました。
整備工事の完成を記念して、昭和3年(1928)5月祥日に梅園に記念碑が設置されており、石碑上段に「御大典記念」と記され、下段には石碑の由来が記されています。
官幣大社枚岡神社は氏子惣中大阪電氣軌道株式會社と共に相諮り社頭を初め寶基の森及ひ梅菀を整理す工費金7千500有餘圓也爰に其功就るに當り斯碑を建てゝ之を後世に傳ふ爾伝
枚岡神社境内林整備は、昭和天皇の「御大典記念」に関連して行われ、同3年5月に完成したことがわかります。
ところで、大阪府の公園は太政官布達による設置以降、用地買収を伴う公園建設は大正14年(1925)に着手し、昭和5年(1930)に開設した住之江公園が初めてでした。大阪府では、住之江公園のあと新たな公園建設は当時考えていなかったと思われます。しかし、大阪府議会では、同6年になると郡部での公園設置要望が始まり、同7年には枚岡神社周辺へと要望場所が具体化されます。大阪府はこの時点では公園整備をかたくなに拒んでいましたが、同8年(1933)10月に枚岡村から用地の提供と公園設置要望が出されると、同年11月の大阪府議会において、知事は枚岡公園の計画を公表します。このように、枚岡公園の建設は枚岡神社の神苑整備に始まり、大阪府議会の要望、そして公園建設へとつながっていきます。同7年の大阪府議会の要望は、枚岡神社周辺に公園を設置し、神社の神苑を風致保全することが目的であったと考えられます。
それでは、枚岡公園の区域が枚岡山だけではなく額田山まで広がったのはどうしてでしょうか。1つには、枚岡山は風致を主体とした静的な地区とし、額田山を多様な公園施設を配置した動的な地区として計画し、全体として多様な施設を有する公園にするためと考えられます。もう1つの理由として考えられるのは、暗街道・暗渓沿いにあった伸線業の工場を公園区域内に取り込み、移転を促したかったのではないかということです。
伸線工場の移転
昭和7、8年頃、枚岡村では枚岡公園建設に向けて伸線業(注2)の集約化事業が進められていました。その頃の伸線業(鉄線)は、軍事色が強く第1次世界大戦を契機に発展を遂げ、重要な産業になりました。明治20年代には、機械への動力に水車が必要なことや、針金の洗浄に伴う廃液処理をめぐり、設置場所が枚岡村の山麓に限定されていき、暗渓沿いにたくさんの工場がありました。
大正2年(1913)に大阪電気軌道(現・近鉄)が放出発電所を建設し、中河内郡の一部に電燈・電力の供給事業を開始します。これにより、伸線業の動力も水車に頼る必要がなくなり、集約化が図られ、枚岡村は昭和10年(1935)4月、官有地払い下げの申請を行います。枚岡市史によると、この理由は「府立公園設定に伴い附近工場地を本村内指定地区に移転し、以って公園地の風致を助成し、併せて工場の集団化を行う」ことでした。さらに、昭和13年(1938)11月に枚岡村は、工場地区設定に伴い、伸線業の関係者に通達を出しています。指定地区に工場を集約することで、動力料・材料運賃等の工場経営単価が安くなり、工場地区・商業地区・風致地区(軌道より東、公園地帯一円)に計画することにより、都市計画区域に指定されるべき前提ともなり、村民の福利増進を目的とした「住みよい村、良い村たらしめんがため」と説明しています。
吉田初三郎鳥瞰図 大軌電車沿線案内(国際日本文化研究センター所蔵)
額田山と枚岡山が一体となった公園とする考えがあったことで、このように伸線業の工場移転を促して風致を維持し、額田山まで区域を広げる必要があったと考えられます。
まとめ
枚岡公園建設の発端は、昭和2年(1927)から始まる御大典記念の枚岡神社林苑整備でした。枚岡神社と神津嶽の間にある大阪府立農学校の演習林は、神苑の一部であったと考えられ、公園施設の整備は園路以外行われなかったようです。また、額田山は、公園に必要な施設が設置され、暗渓沿いにあった伸線業工場移転も合わせて、暗街道・暗渓を含めた北側に公園地を拡大したと考えられます。
大屋霊城は、枚岡公園の区域設定を行った議会答弁にも出てきますが、都市計画委員である彼であれば、枚岡村の将来計画や、工場移転を見据えた計画づくりまで考えていたと思われます。
このように、枚岡公園の建設目的は、大阪東部の山麓、特に枚岡神社周辺の風致保全でしたが、昭和24年(1949)5月7日に公園を含む枚岡地区の山林383haが風致地区に指定されたことを考えますと、緑地保全の観点からも、枚岡公園の役割には大きなものがあると思います。(荒木美喜男)
注1:縣忍知事 明治十四年(一八八一)生。同四十一年(一九〇八)東京帝国大学を卒業後内務省に入り、山形他3県の知事などを経て、昭和七年(一九三二)六月に大阪府知事となり同十年(一九三五)一月に退官。
注2:伸線業 金属を引き伸ばして線材を製造する業
「甦る光景」拾遺 その3
第19号に続き、住吉・住之江界隈の地域の記憶を紹介します。今回は、餅田一子さんです。元料理屋・竹馬で育ち、現在は一平の女将で、、昭和3年生まれです。2022年12月27日にヒアリングを行いました。その時の話題の一部、粉浜と生駒山麓の2話を紹介します。

餅田一子さん
粉浜の賃つき屋
その辺ね、時代的にいうたら、伊賀の人が多いんですわ。伊賀菊さんとかね。あの人らは、蒸し釜の中にね、粉浜で取れたおいもさん入れて、それを下段に入れといてね。昔のことやけど、「賃つき」いうてね、お正月になると餅つきに来はる人がおったんです。
そのときの釜いうたら、下にお湯入れて、上にこう、箱を4角に組んでね、そこにお米入れて蒸すんですわ。それを臼にあけて、パンと開けて、叩いて、餅にするんです。
男手のない家は、賃つき屋いうてね、そういう人に頼むんです。その賃つき屋が、燃やす釜も持って、それ担いで回ってました。家に来るときは、何日の何時頃に来る、いうて、もう決まってるさかい、前の日に洗うたりな、一晩浸けたかどうかは、もう忘れたけど、とにかく餅につけるように、お米を用意しとくんですわ。そしたら、その賃つき屋が、釜を持って来まんねん。ほんで、家で洗うておいたお米を、その釜に入れて蒸す。
賃つきで実際につく人よりも、その蒸す釜を持ってる人のほうが、早い目に来てね。こっちで用が済んだら、もうすぐ次の家へ行ってしもて。で、家の人が洗うてたもち米を、せいろに入れて、つく人が来るまで、ちゃんと蒸して置いとく。そいで、つく人が来はったらな、その臼の中へ、そのお米をぱーっと、入れ物を逆さにして、ぱーっと入れて。そこで、もう、お餅つきますんよ。
生駒山信心と別荘
戦前、生駒山西麓は「生駒山信心」と呼ばれ、宝山寺への参詣とともに、体を休め養生する場所として利用されていました。大軌(現近鉄)が利用できて大阪市内から近く、別荘や借家にしばらく滞在しながら、病気や体調不良の回復を願う人も少なくなかったようです。【以上 水内注記】
昭和11年まで、(住吉公園の南の新地で)お茶屋をしてました。せやけどね、親にしたら、私と2人になってしもて、また新しい指定地へ行ってな、移転せなあかん。移転のお金やとか、まあ、もらえるお金もあるやろうけど、もうお母さんにしたら、「そんなんしてまで」ということで。
母の弟がね、お母さんの四国から来て、うちの帳場をしたりしてましてん。その人が、あの時分、昭和のその頃ね、結核が流行って、神社の前に結核の人が行く病院があって。ほんで、「そんなに移転してまで、お茶屋せんでもええやろ」いう話になって、もう移転して行けへん、いうことになったんです。
ほんで、そのお母さんが、生駒山信心してましてん。それで、その近くに家を1軒買うて。初めはね、旅館みたいなとこで、庭が広うて、1軒ずつ家みたいになってるとこに居てたんやけど、病気が結核やさかい、それで、生駒山の郊外に、家を買うたんです。「うちもな、商売上、ちょっと郊外に家を買うて、そっちで養生してくれ」言うて。ほんで、お盆とかお正月、冬休みとかになったら、私は学校行かんでええから、生駒山の、そのお母さんのおるとこへ行きました。
そこでね、お肉屋さんで、屠殺場から来たての肉をね、2、3日置いといてから売りはんねんけど、前もって頼んどいて、「何日に肉来ますか」聞いとくんです。夏休みや冬休みに生駒山に行ってる時やったら、その言われた日に、もらいに行く。ほんでな、コップにその肉を入れて、割り箸で割らんと、3本か4本はゲンが悪い言うて、5本ぐらい束ねて、硬い糸で3か所ぐらいくくって。その割ってない箸を5本ぐらいひっつけたので、肉をコップに入れて、屠殺場から来たての肉を、つつくんですわ。ほんなら、血が出ますやろ。それが栄養ある、いうて。あんなん、今やったらなあ。虫が湧くとか、菌がある言うて。せやけど、あの時分は、ペニシリンもマイシンもない。結核の薬がない時代やさかい、そんなんしてたんです。生臭かったやろうし、臭かったと思う。親はそれを飲んでました。せやから、夏休みや冬休みになると、大阪から親の世話しに来てる子や、いうてね。うちに手伝いに来てた女中さんみたいな人が、「コイさんのこと、みな、ええ、賢い、ええ子や、言うてはりまっせ」って、後で聞かしてくれました。※
※昭和10年前後の粉浜の賃つきや大阪商人の生駒信心に関わるお話しでした。(水内俊雄)
発行:
都市公園住吉公園指定管理共同体
(株式会社美交工業・NPO法人釜ヶ崎支援機構)
お問い合わせ:
住吉公園管理事務所 電話 06-6671-2292
編集委員:
水内俊雄(代表、大阪公立大学)
小出英詞(住吉大社)
繁村誠人(NPO法人 国際造園研究センター)
櫻田和也(NPO法人 remo記録と表現とメディアのための組織)
荒木美喜男(大阪府庁公園OB)
繁村誠人(NPO法人 国際造園研究センター)






