「住吉公園歴史探訪」第25号

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住吉公園

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「住吉公園歴史探訪」第25号

  • 2025年12月4日(木) 15:35 JST

住吉公園150年記念事業
「住吉公園歴史探訪」第25号

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発行日:2025年12月1日
(季刊:3月・6月・9月・12月発行)

明治6年に開設して150周年を迎えた大阪府営住吉公園の歴史探訪誌として、2018年12月から季刊で第16号まで発刊してまいりました。2023年7月刊の『住吉公園と住吉さん』編纂による一時休止後、2023年12月より再刊しました。ぜひとも住吉公園、大社界隈の悠久の歴史地理をご堪能ください。

細江川の今昔

前号(本紙24号)「細江川の源流と依網池 細江川をめぐるロマン」を受けて、住吉の細江川について、さらに掘り下げてみます。

細江川の流域と周辺

細江川は上流域(大阪市指定の普通河川)と中下流(同準用河川)に分類されます。現在の流路は、住吉区南住吉2丁目の東部を水源とし、同2丁目中央部を西へ横断、千躰1丁目で北上して暗渠となり、千躰交差点の北西で再び地上に現れます。その後、上住吉と墨江の間、長峡町と住之江区安立の間、住吉公園の南側(浜口西1丁目と同2丁目の間)を流れ、13間川に合流します。さらに北上して住吉川に流れ込み、大阪湾へと至ります。

俗に「細井川」と呼ぶこともありますが、河川としての正式名称は「細江川」です。ちなみに、阪堺線の電停は「細井川停留所」(HN13)という名称のため、混乱されがちですが、古くは細長い入江であったことに由来します。

かつての源流は、上町台地の南東域と我孫子丘陵に挟まれた長居地区(旧寺岡村)の旧集落の3方を取り囲むように存在した旧大御池を水源として、上町台地の南縁を周り込むように西へ流れていました。また、前号の記事にあるとおり、旧依網池を水源とする井路川も、南から北へ向かって細江川に流下していたとされます。

平安後期の『詞花和歌集』に収載される相模の歌(322番)には、

住吉の細江にさせる湊標
深きにまけぬ人はあらじな

と詠まれており、当時は水路標識の澪標みおつくしがあり、ある程度の水深があったことがうかがえます。しかし、現在では内陸化が進み、入江や湿地であったことすら想像しにくくなっています。

湿地化の様子は旧地名にも表れています。中流域の北岸、上住吉には字「藪ノ先」「浅澤」、つづく住吉大社南域の社南町には字「芦ノ中」など、後世の植生化による小字の地名が見られます(『東成都誌』)。また、下流域はさらに後世の開発による土地で、住吉公園を挟んだ南岸の浜口東2丁目には字「江川」「地獄橋」「川尻」「江川角」が確認できます。なかでも万葉集で詠まれた浅澤小野のカキツバタは、湿地に由来するものでした(本紙2号2面に関連記事あり)。

さらに、かつて細江川が船着き場として重要な役目を果たしていた証として、字「芦ノ中」の西端、紀州街道に面した1角に字「博労嶋」が存在します(長峡町7番付近)。当地が水運と陸運をつなぐ船荷の積み下ろし場であったことに由来する地名とされています(本紙第4号「住吉名所之図」参照)。

下流域が十三間川に流下するようになったのは、元禄11年(1698)河村瑞賢による開削工事によるものです。これにより、細江川が木津川とも連絡するようになり、住吉詣や水運に盛んに利用されるようになりました。

細江の伝説

江戸時代の住吉を代表する学者・梅園惟朝が編纂した『住吉松葉大記すみよししょうようたいき』(大阪市史料55・58・63に翻刻)には、細江川にまつわる中世の伝承「住吉古伝」の説話を収録しています(同書「勘文部」住吉廿八社之事、「名所部」忘水条)。

住吉の細江『住吉名勝図会』
住吉の細江『住吉名勝図会』

江戸後期の細江川と龍の橋・1つ橋・浅澤・大歳社・御祓橋の様子(文政10年[1827]刊『摂州住吉宮地全図』より)
江戸後期の細江川と龍の橋・一つ橋・浅澤・大歳社・御祓橋の様子
(文政10年[1827]刊『摂州住吉宮地全図』より)

説話によると、その昔、大歳神(スサノオ神の子、年神様)が天照大神の使者として住吉に派遣されました。住吉の長峡の崎に至った際、その流水の美しさに心を奪われて長居し、帰還を忘れて留まったのが大歳社(住吉大社境外末社)の起源とされます。その流水の景色こそが細江であったといいます。

このため、細江の流水は、眺めることで憂鬱・苦悩・傷心を忘却することができる「忘水(わすれみず)」として語り継がれ、和歌にも詠まれる名所となりました。

細江川の中下流域における橋と地名
細江川の中下流域における橋と地名の様子
地理院タイルに『東成郡誌』、『墨江村誌』、『地番入大阪市図:5千分1』(昭和6年 大阪市編 和楽路屋)、住吉村常盤会所蔵「住吉町地図」「浜口町地図」などを参照して作成

紀州街道の御祓橋
紀州街道の御祓橋

同東面の遠景
同東面の遠景

阪堺線の架橋
阪堺線の架橋

細江川の再軽備

近代には、水源であった長居(旧寺岡村)の旧大御池が干拓され、流域沿いの開発も進んだことで河川の規模は縮小しました。一方、水田が姿を消して保水力を失った周辺地域では、大雨のたびに氾濫し、水害をもたらすようになりました。やがて、雨水と生活排水の汚水が流れ込むドブ川に変貌していったのです。

そのため、昭和後期から平成9年(1997)にかけて大規模な改修工事が行われ、川底が深く下げられ、護岸整備が施されました。

また、都市整備事業の一環として、平成元年(1989)8月、水源を失った細江川の景観を再生するため、長居公園通に沿った南住吉2丁目付近の東西約600メートルの区間に、平野下水処理場の浄化水(第3次高度処理水)を送水する水路「細江川親水河川」が整備されました。

水路周辺は、親水河川公園「細江川のせせらぎ」と命名され「万葉のゾーン」「遊びのゾーン」「4季のゾーン」の3区域に遊歩道が設けられており、ゆかりの歌碑4基(上流より顕昭・宗良親王・藤原定家・藤原俊成の和歌)と細江川顕彰碑が建立されています。

細江川の架橋

現在の細江川に架かる橋は、千躰交差点以西から十三間川までの間に、千躰橋・阪之井橋・無名橋・[南海高野線]・細江橋・龍の橋(熊野街道)・一つ橋・新墨江橋・[阪堺線]・御祓橋(紀州街道)・岸辺橋・長峡橋・[南海本線(細江川橋)]・江川橋(住吉公園南)・大正橋(国道26号線)・新橋・萬歳橋・新高橋・[阪神高速15号堺線]があり、鉄道や高架道路を除けば計15橋が架けられています。

そのうち、江戸時代以前に架橋が確認できるのは、龍の橋・一つ橋・御祓橋の3橋のみです。以下に3橋について簡単に紹介します。

龍の橋(たつのはし) 熊野街道(阿倍野街道)の橋で、かつては「立市橋」「辰市橋」とも表記され、いずれも「たつがはし」と呼んでいました。これは、近世以前にはこの橋の東側の水田に「龍神山」という小丘と、龍神を祀る祠があったことに由来するといいます(『住吉松葉大記』)。一説には、住吉大社の東南に位置することから「辰巳橋」が転じた名称ともいわれています。

はじまりは不詳ですが、平安後期から鎌倉時代に隆盛した熊野詣の道筋にあたるため、相当に古い時代から存在していたと考えられます。ちなみに、住吉大社の式年遷宮にともなう造営では、この橋も社殿と同様に架け替えられてきたと伝えられます。

一つ橋(ひとつばし)住吉大社境内南東の浅澤社と大歳社の間に架かる橋で、古くは「独梁橋」と表記されました。かつて、住吉神主の居館であった正印殿から住吉大社へ通じる道筋にあたるため、龍の橋と同様に、住吉大社の式年遷宮に合わせて架け替えられてきた橋です。

古称の「独梁橋」については、10巻本『和名類聚抄』のなかに「独梁」を訓読して「比度豆波之(ヒトツバシ)」とあり、また「独木橋」とも呼ばれ、縦横1本の木を梁(は)った橋であると説明されています。これによれば、この橋も古くは丸木橋であったと想像されます。

『摂津名所図会』には「独梁橋(ひとつばし)、浅澤の西にあり、下流を細江川といふ」とあり、当時この橋より下流を「細江川」と区別して呼んでいたことがわかります。往古の入江であった細江の位置は、一つ橋より下流であったことを示しているのかもしれません。

橋の北詰、浅澤社南西角には、かつての駒止石(こまどめいし)の名残である俗称「ろうそく石」が1基のみ現存しています。

橋の南詰、大歳社付近は、謡曲『富士太鼓』『梅枝』に登場する住吉伶人・富士の住居跡ともいわれています(『摂津名所図会』)。また、江戸後期の文人画家・岡田半江(1782~1846)は、この橋のほとりに居を構え、のちに重要美術品となる『住吉真景図巻』(京都国立博物館所蔵)などの傑作を生みだしました。

御祓橋(おはらいばし) 紀州街道の橋で、住吉祭において神輿が渡るため、祭礼の別称「御祓(おはらい)」に由来します。古図には「大祓橋」と表記した例もあります。前述の橋と同様に、住吉大社造営に際して架け替えが行われてきました。

橋の北詰、北東辺にはかつて神輿台が置かれ、南詰の西脇には、女主人が長い柄杓で客に茶を出したことで有名な「小町茶屋」があった場所と伝えられます。

現在のものは昭和34年(1959)に架橋されたもので、北詰東側には大阪市によって橋梁顕彰碑が建立され、紀州街道と御祓橋、住吉祭についての説明が記されています。

以上、住吉公園の南を流れる細江川に注目することで、周辺の景観の変遷、地名と伝承、橋梁の歴史などの理解を深めることができます。(小出英詞)

住吉公園に児童遊園ができる

大屋霊城と児童遊園

大屋霊城(本誌第6号で紹介)は、大正4年(1915)東京帝国大学を卒業後、明治神宮造営局に奉職しました。大正6年には大阪府立農学校(現大阪公立大学)に教諭として赴任し、住吉公園改良工事を初め、大阪府の公園の改修に携わりました。同9年には都市計画大阪地方委員会技師を兼務し、造園分野の技師、専門家として全国の都市公園行政に関わりました。同10年にはヨーロッパへ渡り、イギリスのガーデンシティほか、ドイツのクラインガルテンなどを視察したのち、昭和5年(1930)に都市公園の必要性を説いた『公園及運動場』を出版します。その中で、都市児童の体格向上や危険防止という観点から、小規模公園の児童遊園を都市公園の中で最も重要なものと位置付け、また、中公園の中にも児童の遊び場を区分して設置することが必要であると述べています。

このため、大屋霊城が携わった大阪府営住吉公園、住之江公園、山田公園、枚岡公園すべてに児童遊園(児童遊戯場)が設置されています。

図①『住吉公園案内 大阪府』(昭和9年頃)
図①『住吉公園案内 大阪府』(昭和9年頃)

住吉公園の初めての児童遊園

住吉公園に初めて児童遊園ができたのはいつ頃かご存じでしょうか。

遊具は大正の初めにはすでに見られ、松林の中の広場に設置されていました。住吉公園は、大正7年(1918)から大改修が行われましたが、当時の完成図には児童遊園は表示されていません。ところが、大正9年(1920)5月の住吉公園改良工事竣工報告書には遊具が設置された記載があることから、公園の各広場に設置されたものと考えられます。

昭和7年(1932)度に作成された住吉公園と住之江公園とを結ぶ連絡道路のパンフレットには、住吉公園に児童遊園の文字が見られることから、児童遊園が存在していたことがわかります。

大正8年(1919)から昭和5年(1930)までに大阪府が発注した工事をまとめた調書である住吉公園工事調を見ますと、初めて児童遊園の文字が出てくるのは大正11年(1922)9月の「現児童遊園内に一方スベリ臺1基」になります。次に出てくるのは、昭和5年(1930)の「児童遊園周囲柵鉄網柵129間」、「児童遊園盛土」になります。したがって工事調によれば大正11年には既に存在していたことがわかります。そこで、住吉公園工事調で遊具関係と思われる工事をもう少し詳細に見ていくことにします。

写真①『住吉公園案内 大阪府』(昭和9年頃)児童遊園の様子
写真①『住吉公園案内 大阪府』(昭和9年頃)児童遊園の様子
  • 大正9年(1920)度6月 廻旋塔梯子シーソー4台、ブランコ2基の設置工事
  • 翌年3月 ブランコ2基の設置工事
  • 同10年(1920)度 4方釣ブランコ、シーソーの修繕工事
  • 同11年(1921)度 現児童遊園内に一方スベリ台1基新設、運動場新設工事でブランコを両スベリ台に改良工事。

ブランコをスベリ台に造り替えるとは考えにくいので、おそらくブランコを撤去してスベリ台を設置したということと思われます。また、運動場新設工事でスベリ台を設置していることから、この運動場新設工事は、児童遊園の新設工事のことと思われます。

  • 大正13年(1923)度 ブランコ修繕
  • 同15年(1925)度 スベリ台・ブランコの修繕
  • 昭和2年(1927)度 遊動円木(動物型)新設・スベリ台修繕
  • 同4年(1929)度 揺籃・スベリ台・ブランコの修繕
  • 同5年(1930)度 児童遊園の柵建設工事、盛り土工事、ブランコ3基の建設、運動器具修繕

工事調の最後に、設置時期は不明ですが「ママゴトノ家」が5基設置されたことが記載されています。

以上のことから、大正11年(1921)度の運動場新設工事は児童遊園の新設工事であり、昭和2年度に遊動円木を設置、さらに同5年度には児童遊園の柵が建設され、児童遊園は大正11年度の新設工事から昭和5年度の柵設置工事まで複数年かけて整備、完成されたものと考えられます。そこで、昭和9年頃のパンフレットをもとに地元から寄せられた写真を参考にしながら、児童遊園の姿を再現していきます。

地元から寄せられた昭和5年(1930)頃の住吉公園の様子
地元から寄せられた昭和5年(1930)頃の住吉公園の様子

地元から寄せられた昭和5年(1930)頃の住吉公園の様子
地元から寄せられた昭和5年(1930)頃の住吉公園の様子

地元から寄せられた昭和5年(1930)頃の住吉公園の様子
地元から寄せられた昭和5年(1930)頃の住吉公園の様子

昭和9年の児童遊園

昭和9年頃に大阪府が作成したパンフレット『住吉公園案内』には、住吉公園の鳥瞰図があり、児童遊園の部分を拡大したのが3面図①です。この図では工事調にも述べられているように、周囲に柵を施し、北側に「ママゴトノ家」が3基(工事調では5基)、東側にブランコが2基、西側にはゾウのスベリ台と思われるものが確認できます。

また、パンフレットには児童遊園の様子を写した(3面写真①)が添えられています。柵に囲まれた児童遊園には、左側に動物の頭を付けた遊動円木、奥にママゴトノ家が2基、右側にブランコが2基、その間を木馬に乗った子供の遊ぶ姿が映っています。

次に、地元の方から管理事務所に寄せられた児童遊園の写真を見ながら、昭和5年頃の様子を紹介します。

上の写真にはゾウのスベリ台、中の写真には4方吊りブランコらしきものが見えます。4方吊りブランコは、工事調の大正10年(1920)度に修繕工事として出てきます。おそらく、同7~8年(1917~1918)の大改修において別の場所に設置されたものと考えられます。

下の写真は、奥に見える児童遊園の右側にゾウのスベリ台、中ほどにジャングルジム、左側にママゴトノ家が見えます。児童遊園にジャングルジムがあったことが、この写真で初めてわかりました。

ところで、ゾウのスベリ台はいつ頃設置されたのでしょうか。工事調では、スベリ台の記載が何か所か見られますが、新設工事は大正11年(1921)度のみで、児童遊園の整備に合わせて設置されたと思われます。

これらの情報から、昭和9年頃の児童遊園にある遊具の配置を図化したものが図②です。工事調のとおりママゴトノ家を5基にしていますが、実際に描いてみると間隔が狭く、横1列の配置ではない可能性があります。また、ジャングルジムの位置がこの場所か、写真からはなかなか判別しづらく、他の遊具との位置関係で場所を決めました。木馬については、場所が特定できないため記載していません。

図②住吉公園の様子を筆者が作成した図面
図②住吉公園の様子を筆者が作成した図面

まとめ

大屋霊城著『公園及運動場』には、中公園で児童遊戯場を設ける場合は、千坪から2千坪と規定していますが、住吉公園では400坪とかなり小さなものでした。大屋霊城は、年齢により児童の遊び方が変わると考え、児童遊園を、乳児から7歳ぐらいまでの遊戯場と、小学生から中学生までの遊戯場に分けた整備を推奨しています。住吉公園では、乳児から7歳ぐらいの遊戯場として整備しており、ブランコ、遊動円木、スベリ台や木馬、ママゴトノ家を設置しています。住吉公園は、大屋霊城の児童遊園への思想が反映された公園といえます。(荒木美喜男)

 

発行:

都市公園住吉公園指定管理共同体
(株式会社美交工業・NPO法人釜ヶ崎支援機構)

お問い合わせ:

住吉公園管理事務所 電話 06-6671-2292

編集委員:

水内俊雄(代表、大阪公立大学)
小出英詞(住吉大社)
繁村誠人(NPO法人 国際造園研究センター)
櫻田和也(NPO法人 remo記録と表現とメディアのための組織)
荒木美喜男(大阪府庁公園OB)
繁村誠人(NPO法人 国際造園研究センター)