「住吉公園歴史探訪」第18号


住吉公園

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「住吉公園歴史探訪」第18号

  • 2024年3月11日(月) 14:48 JST

住吉公園150年記念事業
「住吉公園歴史探訪」第18号

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発行日:2024年3月1日
(季刊:3月・6月・9月・12月発行)

明治6年に開設して150周年を迎えた大阪府営住吉公園の歴史探訪誌として、2018年12月から季刊で第16号まで発刊してまいりました。2023年7月刊の『住吉公園と住吉さん』編纂による一時休止後、2023年12月より再刊しました。ぜひとも住吉公園、大社界隈の悠久の歴史地理をご堪能ください。

住吉公園の原風景を彩る生物たち

―水辺の植物 Ⅰ「アシ・ヨシ」―

大阪市の市章になっている澪標みおつくしは芦原の中の水路を示す標示板が由緒となっています(写真①)。アシ(ヨシ・芦・蘆・葦・葭)は淀川水系を始め、大阪近辺の淡水の水辺に生育しています。(写真②)

写真①木津川の澪標 上田貞治郎 写真コレクション(大阪公立大学)
写真①木津川の澪標 上田貞治郎 写真コレクション(大阪公立大学)
「木津川口の目標として建設せられたるもの、俗に鯖の尾と称し大阪市の徽章に採用せられたれども、実物は現今廃滅したり。明治十年頃の撮影なり」※画像をクリックして別ウインドウで拡大表示

写真② アシ(ヨシ)の花、大和川河岸
写真② アシ(ヨシ)の花、大和川河岸
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元々、葦はアシが呼称の植物で古事記や日本書紀には、宇摩志阿斯訶備比古遅神うましあしかびひこぢのかみという、泥の中から生き生きと伸びる葦の芽(アシカビ)のように、神格化された神様が登場するとともに、豊葦原瑞穂国とよあしはらのみずほのくにが日本の別名になっています。平安期からはアシが「悪し」に通じることから、真逆のヨシ「良し」に呼び変えられ、現在では、植物図鑑にも両名が併記されています。

現在でも、淀川や琵琶湖のアシ原はよしず葭簀の材料として有名ですが、元禄2年(1689)の寺田家文書の中に、「葭年貢」の記事があります。(写真③)

当時の住吉郡七道村では、村の手水橋(手洗橋)の葭に(注1)小物成こものなり年貢がかけられています。

七道村は、七道領や七道浜、七堂村、七度村などと記され、紀州街道に沿って堺北堀の北側から安立町に続く地域でした。(図①)

村高二百石強ほどの小さな村でしたが、紀州街道のルート上にあり、住吉大社にとって堺の御旅所関連神事の重要な舞台になっており、「住吉の松」にちなんだ松並木でも有名な場所であり、大社の大切な社領となっていました。

隣村の遠里小野村と同様に、七道村も村の中央に新大和川が付け替えられ、南北に分断されて村高も半減してしまいます。

村の中に手水川という細流があり、紀州街道に手水橋がかけられ、その近辺でアシが採れたようです。

新大和川は狭間川をつぶして付けられましたが、手水川は残されたようで(写真④)、葭年貢は付替以後も続いています。住吉大社近辺の細江川や材木川にもアシが生育していたと推測されます。

現在、アシは葭簀よしずや楽器のリードに利用されているくらいですが、江戸期には、肥料や屋根材、除草剤、生薬、燃料等々大活躍していました。自然に生えてくる水生植物ですが、当時は年貢をかけられる貴重な植物でした。

近年は、水辺の生態系を守る意義が見直され、アシの保護運動も起こっています。今でも大和川の各所で見られるアシですが、現在の住吉公園にはないようです。

江戸初期から村が高槻藩との相給あいきゅう(領主が複数の村)となり、代々に渡り苅田村と庄屋役を兼帯していた当家にこの文書が残りました。

なお、前頁に掲載している元禄国絵図を見ますと、大和川開削以前の七道村が堺の町々に北接して見えます。住吉大社の南に細江川と手水川が、住吉社領の村々には村名の右肩に「住吉」と書き込まれています。寺田家が庄屋を務める苅田村は、依羅池よさみいけの東側に描かれています。(図②)(寺田孝重)

  • 注1:小物成年貢とは、田畑以外に賦課された雑税の総称。江戸時代には土地の用益や産物が対象になりました。

図① 摂州住吉郡七道村々絵図
図① 摂州住吉郡七道村々絵図
堺環濠北側から安立町までの絵図、松並木や新大和川、その先に手水川で北の村界となっている唯一設置された大和橋などが見られる。(寺田家文書)※画像をクリックして別ウインドウで拡大表示

図② 元禄国絵図に見る七道村、住吉大社、苅田村などの位置関係図(元禄国絵図 国立公文書館アーカイブより)
図② 元禄国絵図に見る七道村、住吉大社、苅田村などの位置関係図(元禄国絵図 国立公文書館アーカイブより)
大和川開鑿以前の状況。安立町から七道村、堺町まで紀州街道が赤い太線で、その東側に細赤線で熊野街道が描かれている。※画像をクリックして別ウインドウで拡大表示

写真③ 元禄二年(1689)七道村年貢免定状(一部分)
写真③ 元禄二年(1689)七道村年貢免定状(一部分)
囲み部分には「米壱斗 手水橋葭見取 助左衛門分」と書かれている。(寺田家文書)※画像をクリックして別ウインドウで拡大表示

写真④ 現在の手水川
写真④ 現在の手水川。
右側が阪堺線に架かるもと手水川の橋梁で、川は今は暗渠化され道路になり、左写真に続く形になっている。※画像をクリックして別ウインドウで拡大表示

 

住之江公園と護國神社

住之江公園南側、削除される。

昭和14年(1939)6月1日に住之江公園の南側(温室と花壇を含む)が供用廃止されました。図1は大阪府公報に掲載された図面です。(参事会に提出された議案書の図面ではプールを含めた東側境界まで廃止区域としている)。

図1 昭和14年(1939)6月1日 供用廃止区域図 大阪府公報
図1 昭和14年(1939)6月1日 供用廃止区域図 大阪府公報

 

ここでは、住之江公園の一部が廃止に至った経緯を大阪府参事会議案書及び公報で見ていくことにします。

廃止に先立つ昭和14年(1939)1月26日の参事会に提出された「府参第一六号(急施) 土地買収ノ件」の議案書で、住之江公園の北西と南西角地にある民有地を公園用地として買収することに同日付で可決確定します。(図2)

その後、住之江公園一部廃止の公報が出され、同15年(1940)4月16日の参事会で「府参第六六号(急施) 土地無償譲渡ノ件」の議案書が提出され、前年に買収した土地の一部(南西側)と供用廃止された住之江公園の南側を合わせ、一万坪を「神社境内地トシテ大阪護國神社ニ無償譲渡スルモノトス」とし、これも同日付で可決確定しています。(図3)

つまり同14年(1939)6月1日の公園の一部廃止は一万坪の護國神社用地(図3では招魂社敷地となっている)として譲渡するための前段であることがわかります。

しかし、この時に創建された大阪護國神社の区域は同15年(1940)4月16日の参事会で示された区域の内、公園東側の入口を残すため、プールを含む東側は譲渡区域から除外されました。このため護國神社用地は一万坪に満たないことになり、同18年(1943)10月1日に再び住之江公園の一部(南加賀屋町187番地の4の内、面積1194坪余り)を追加で供用廃止しています(図4)。この場所は図面が添付されていないため不明ですが、護國神社の現在の形態を見ると本殿の北西あたりと考えられます。つまり、新しく設置された相撲場の区域がプールに代わり、護國神社に編入されたと考えられます。

図2 昭和14年(1939)1月26日 公園買収区域
図2 昭和14年(1939)1月26日 公園買収区域
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図3 昭和15年(1940)4月16日 無償譲渡区域図
図3 昭和15年(1940)4月16日 無償譲渡区域図
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図4 昭和18年10月1日 大阪府公報
図4 昭和18年10月1日 大阪府公報

 

このように住之江公園の一部が廃止され、護國神社に無償譲渡した経過を見てきましたが、昭和14年(1939)1月26日及び翌年4月16日の参事会の議案書には「急施」という文字が入っています。急いで用地を買収し、用地の無 償譲渡がなされたことがうかがわれます。なぜ大阪護國神社の創建を急ぐ必要があったのでしょうか。

その発端は昭和13年(1938)の内務省による官祭招魂社制度の見直しにあります。同年9月に指定招魂社案を取りまとめ道府県に通知するとともに、該当する招魂社の有無の調査を求めました。

招魂社指定標準概要(注1) 指定招魂社は1道府県1社とする。

  1. 祭神 道府県一円の縁故者を祭るものなること
  2. 社殿境内 府県社に相当する規模たること
  3. 基本財産 五千円以上
  4. 神職 本務神職を設置する見込みのあるもの
  5. 崇敬区域 道府県一円の亙るもの
  6. 神饌幣帛料の共進 道府県費より神饌幣帛料を共進する見込みのあること

その後、同年12月15日、神社制度調査会は護國神社要項(名称を変更)を可決し、内務省はこれに基づいて法令を改正し、昭和14年(1939)4月に護國神社制度が施行され、この時点で道府県から回答のあった34社が護國神社に指定されました。この時の指定には大阪府は含まれていません。

大阪府は同13年(1938)9月の内務大臣からの調査に対して、当府には官祭招魂社が一社存在するが該当しないこと、紹介の要件に該当する招魂社は目下創建準備中であり、近く申請する見込みである旨を回答しています。同年12月22日、大阪招魂社造営大綱を決定、翌年の1月に大阪招魂社奉賛会発足し、体制がようやくできたところでした。

  • 注1:大阪護國神社史P67

 

大阪護國神社創建

招魂社と招魂祭

招魂社の始まりは明治元年(1868)5月、明治維新の殉難者の忠魂慰霊し、東山にしう 祠宇(注1)を設け長く祭祀するとする太政官布告が出されたことによります。その太政官布告により京都東山に霊山招魂社が創建され、布告により地方縁故の殉難者を祀る藩主が各地に現れ、多くの招魂社が創建されました(注2)。明治7年(1874)には、その時点で存在する招魂社に限り、以後、官費支給による維持経営を認め、これを官祭招魂社と称することになりました。

大阪府内には大江神社隣接の国有地(43坪)に置かれた官祭招魂社(現在の大阪市天王寺区夕陽丘にある大江護國神社)が唯一ありますが、これは京阪間で殉難した長州藩士四十八名の志士を祀った社で、当時の長州藩大阪藩邸在勤者によって明治2年(1869)8月18日に造営されたものです(注3)。

図5 明治35年頃 右側に明治記念碑、手前が豊国神社。上田貞治郎写真コレクション(大阪公立大学)
図5 明治35年頃 右側に明治記念碑、手前が豊国神社。上田貞治郎写真コレクション(大阪公立大学)

図6 明治18年頃 中之島の明治記念碑新修大阪市史第10巻 歴史地図
図6 明治18年頃 中之島の明治記念碑
新修大阪市史第10巻 歴史地図
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これとは別に当時は全大阪での招魂祭が城東練兵場において、仮設の祭壇を設け行われていました。その始まりは明治10年(1877)の西南戦争の戦没者を弔う慰霊碑が明治16年(1883)3月、大阪市中之島に明治記念碑として大阪偕行社により建立されたことによります(図5、6)。同年5月6日から3日間、この明治記念碑前で第一回招魂祭が行われ、その後大阪偕行社が運営の中心となり毎年招魂祭が続けられていましたが、日清戦争の戦没者を合わせて弔うことになると明治記念碑前では手狭になり、明治33年(1900)には城東練兵場に祭壇を設け、英霊を祀る盛大な祭典を行うようになります。この招魂祭は第四師団管区を対象とするもので、他府県にわたると同時に、祭祀施設も臨時仮設のもので、遺族や一般府民の日常的な祭祀から見れば不十分なものでした。城東練兵場の招魂祭は昭和15年(1940)に大阪護國神社が創建されるまで続けられることになります。招魂祭の場所が城東練兵場に替わったことにより、明治記念碑は同35年に大阪偕行社の敷地に移転されました(注3)(図7)。

図7 大正14年(1925)大大阪明細地図 偕行社と城東練兵場
図7 大正14年(1925)大大阪明細地図 偕行社と城東練兵場

大阪護國神社創建(注4)

大阪護國神社創建の経緯を住之江公園の変化と対比できるよう、年月ごとに護國神社の動きを箇条書きにまとめたものが次の通りです。

  1. 昭和13年4月25日に池田大阪府知事呼びかけによる大阪招魂社創建の初協議会が府、市、商工会議所および師団代表により行われる。
  2. 同年9月に内務省から指定招魂社案が提示され、これに該当する招魂社の調査に対して大阪府は、当府には官祭招魂社が一社存在するが該当しないこと、紹介の要件に該当する招魂社は目下創建準備中であり、近く申請する見込みである旨を回答した。
  3. 同年12月22日、大阪招魂社造営大綱を決定
  4. 昭和14年1月、大阪招魂社奉賛会発足。
  5. 同年2月20日に地鎮祭
  6. 同年2月21日より護國神社造営工事を開始(樹木移設、工作物移転等)
  7. 同年4月の護國神社制度の施行伴い大阪招魂社奉賛会を大阪護國神社奉賛会に変更
  8. 同年4月30日に創建願書を内務大臣あてに提出
  9. 同年6月6日、内務大臣より許可、翌七日、その旨が内務省神社局から発表された。
  10. 昭和15年3月末、仮社殿竣工
  11. 同年4月22日、内務大臣に対して護國神社指定申請
  12. 同年同月30日付で大阪護國神社、内務大臣の指定を受ける
  13. 同年5月4日の鎮座祭、5日の第一回例祭を行う

大阪護國神社御造営工事 日程表
大阪護國神社御造営工事 日程表

一方、住之江公園の動きは次のとおりです。

  1. 昭和14年1月26日の参事会で、住之江公園の北西と南西角地にある民有地を公園用地として買収することに可決確定
  2. 同年6月1日に住之江公園の南側(温室と花壇)が供用廃止
  3. 昭和15年4月16日の参事会で前年に買収した土地の一部(南西側)と供用廃止された住之江公園の南側を合わせ、一万坪を「神社境内地トシテ大阪護國神社ニ無償譲渡スルモノトス」として可決確定

以上のことから、大阪護國神社創建に合わせて住之江公園が改変されたことがわかります。また同時に、大阪護國神社創建のスケジュールが非常にタイトであることが読み取れます。タイトなスケジュールに収めるためには、大阪護國神社は府県社であることから、大阪府知事が神社創建の音頭を取り、大阪府の中心である大阪市内に存在する、大阪府営の住之江公園(住吉公園は対象にならなかったと思われます)に持って来ざるを得なかったことがわかります。また、昭和14年(1939)1月に大阪招魂社奉賛会が発足し、同年2月20日に地鎮祭を執り行い、21日より作業を開始しています。この時点では住之江公園の一部廃止が行われておらず、さらに同年4月30日に創建願書を内務大臣あてに提出し、同年6月6日、内務大臣より許可が下りる直前に公園の一部廃止が行われています。

また、招魂社指定標準では、社殿境内が府県社に相当する規模たることとされていますが、明治45年(1912)に出版された『府県郷社明治神社誌料』全3巻の府県社を見ると境内規模にはばらつきがあり、最も多くみられる規模は二~三千坪になります。したがって大阪府が目指した一万坪というものは当時の府県社の規模を表しているのではなく国から示されたものと思われます。

住之江公園の改修

図8 昭和17年 住之江公園と大阪護國神社
図8 昭和17年 住之江公園と大阪護國神社
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護國神社創建に伴い改修に迫られた住之江公園の計画は『公園緑地』(公園緑地協会 著者)に記載されています(注6)。それによると、「公園は南側を神社の境内となるため、南入口を東方に移し、境内に接し幅員14.5メートルの園路を配し、西入口及これに接する樹林地を改造して在来の正面苑路二線を幅員20メートルの一線に変え、南の神社に近き部分に相撲場を設け弓場の西に接し温室花壇を移し、幹線園路の一部に大改造を行う整備計画をしているが、将来護國神社の本殿を建築するに当たり、西北隅の境内の盛土を行うための土砂を公園北西部で掘削し確保する。この部分を埋戻し25メートルプールを移築する豫定である。」となっています。

また、公園の整備は護國神社創建の準備工としてその内容が一部記載されており、二月末から九月末の樹木の移植に始まり、公園施設の移転が行われたことがわかります。ただ、相撲場、弓場や園路の改修がいつ行われたかは不明です。また、25メートルプールの移築は最後まで行われることはなく、池のまま放置されていました。図8は昭和17年(1942)の航空写真を基に筆者が図化したものです。(荒木美喜男)

  • 注1:参拝のための殿舎、やしろ、祠
  • 注2:岩倉公実記P468
  • 注3:大阪護國神社史P67
  • 注4:アジア歴史資料データベース「大阪偕行社 使用地域内へ記念標建設の件」
  • 注5:大阪護國神社史P70、71、72、73、79、85、88、89、90
  • 注6:公園緑地第3巻12号P90「大阪護國神社造営工事概要」

 

発行:

都市公園住吉公園指定管理共同体
(株式会社美交工業・NPO法人釜ヶ崎支援機構)

お問い合わせ:

住吉公園管理事務所 電話 06-6671-2292

編集委員:

水内俊雄(代表、大阪公立大学)、小出英詞(住吉大社)
寺田孝重(苅田土地改良記念コミュニティ振興財団)
繁村誠人(NPO法人 国際造園研究センター)
櫻田和也(NPO法人 remo記録と表現とメディアのための組織)
荒木美喜男(大阪府庁公園OB)