住吉公園

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「住吉公園歴史探訪」第4号

  • 2019年9月 2日(月) 09:40 JST

住吉公園150年記念事業
「住吉公園歴史探訪」第4号
歴史探訪 第4号
発行日:2019年9月1日
(季刊:3月・6月・9月・12月発行)

明治6年に開設された大阪府営住吉公園は、2023年に開設150年を迎えます。「住吉公園 歴史探訪」では、住吉公園150年記念事業として住吉公園の歴史をたどり、開設当初からどのように利用され、どのような変遷を遂げてきたか、悠久の歴史に想いを馳せてみたいと思います。

明治期の住吉公園界隈と潮湯館

江戸時代から明治まで、住吉公園が開設した住吉大社旧境内の周辺には、紀州街道を中心にして料理屋・茶屋・土産物屋などがひしめき、大坂や堺への往来客、住吉詣の参拝客を相手にして賑やかに繁昌していました。当時の街道筋は、境内の町屋であった社領新家(現・住吉区長峡町)を中心に、北は住吉新家(現・住吉区東粉浜)、南は安立町(現・住之江区安立)まで町屋が続いていました。その賑やかな様子は十返舎一九『東海道中膝栗毛』にも特筆されます。

此ところの名物は、金魚・酢蛤・ごろごろ煎餅・唐がらし・昆布・竹馬・糸細工など商ふ家、数多にある中に、料理茶屋は三文字屋・伊丹屋・丸屋なんどいへるが、わきて客の絶え間なく、繁昌ことに云ふばかりなし。

ところが、その繁華街も近代化の波を受けて大きな変化をむかえました。明治18年(1885)12月の阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)開通や、駕籠から人力車への交通手段の変遷があったため、移動速度が格段に向上したことで往来客の休憩利用が減ってゆきました。明治20年代には街道沿いの商店が衰退をはじめ、文楽・歌舞伎の名作『夏祭浪花鑑』や古典落語の『住吉駕籠』などに登場する大料亭は、次々と姿を消してゆきました。

その一方で存続したのは、神社の参道や住吉公園の内外にあった茶屋でした。なかでも壮大な規模を誇ったのは公園西にあった潮湯館です。ちなみに、潮湯とは海水を沸かした風呂のことで、禊祓(みそぎ・はらえ)の信仰と、海水の薬効に基づく湯治法として、古くから堺・住吉で見られた習俗でした。

明治31年(1898)6月に発行された刷物『住吉御潮湯禊舘之図』によれば、住吉大社・住吉公園を背景に、高燈籠に南隣、十三間川に面して潮湯館が構築されており、広大な敷地内に は、四階建の楼閣、二階建の回廊式母屋、池や庭園には照明灯が設置されている様子が見てとれます。ほかにも、公園内に茶屋とおぼしき建屋も数多く画かれています。これらから、当時の潮湯館が信仰・健康・遊楽を目的とした大規模レジャー施設であったことがうかがわれます。なお、発行年は、大坂築港起工式(本紙前号にて紹介記事)の八ヶ月後で、宝之市神事の復興の四ヶ月前にあたり、住吉公園が遊楽地として注目を浴びた時期といえましょう。(小出英詞)

『住吉御潮湯禊舘之図』 明治31年(1898)6月 住吉大社蔵
『住吉御潮湯禊舘之図』 明治31年(1898)6月 住吉大社蔵

絵図上方には、生駒山地を背に住吉大社の社殿が整然とならぶ。中央には、街道に平行して松原を横切る線路があり、旧住吉新家にあった住吉ステーションには阪堺鉄道の蒸気機関車「住江」号が煙をあげて停車する。なお、本図発行年の10月1日付で阪堺鉄道は南海鉄道(現・南海電気鉄道)に事業譲渡されたが、奇しくも直前の様子を描いている。下方には、公園の松原中に茶屋とおぼしき建物が散在しており、汐掛道を通じて旧高燈籠と長峡橋、十三間掘川に至る。そして、最も大きく描かれるのが禊舘である。域内には潮湯の湯屋と思われる建物のほか、住吉浦の眺望を楽しんだであろう望楼を備えた四階建の高層楼閣、多数の座敷を有する二階建の回廊式母屋があり、松や桜の庭園には照明灯が設置されたモダンな庭園であったことがうかがえる。(小出英詞)

 

明治30年代の写真から

【左上から時計まわりに】大坂住吉高燈籠、海鉄道創設者松本重太郎銅像、住吉高燈籠
【左上から時計まわりに】

  • 大坂住吉高燈籠
  • 南海鉄道創設者松本重太郎銅像 元難波駅前ニ在リシモノ 住吉駅ニ移ス 人家櫛比中の高燈炉 昭和三年
  • 住吉高燈籠
    住吉公園の西 松林の尽くる処、出見の濱辺に聳へたり。遠望極めて風趣ありしが、現今茶亭や別荘建連り昔の勝景なし。写真は明治三十年頃のものである。

参考文献
緒川直人:アマチュア写真家野々村藤助と明治30年代写真史の再検討
初期大阪写壇を中心に『文化資源学』5: 63-74, 2006.

 

前回ご紹介した上田貞治郎の写真コレクションのなかに「ナンバ・天下茶屋・住吉」と題字に注記されたアルバム『東南部』があります。このうち、大きく写された印象的な高燈籠の頁には解説文が添えられて、右上の貞治郎自身が撮影した昭和3年(1928)の写真では付近の市街化にうもれる様子と対比されていました。

さらに頁をめくると、下段右手から住吉神社の御田および公園内外の写真がならび、松林のなかには茶屋らしき建物がみえます。このうち、明治34年(1901)3月3日、カメラクラブ員の集合写真に目をむけると(下段左手の左上)、往時の手提用カメラや中板組立暗函も見えています。緒川直人の研究によると、これは貞治郎(上田文斎の次男)の実兄にあたる野々村藤助が東区南久宝寺四丁目で香料化粧品商(石鹸・ガラス器の製造販売でも有名)「野々村號」経営のかたわら、尚美写真倶楽部・大阪写真倶楽部に所属した時期にあたり、その野外撮影会の様子がうかがわれます。また境内から十三間堀川あたりの植生も期せずして記録された、貴重な写真かもしれません。(櫻田和也)

 

住吉神社 御田

住吉神社 御田住吉神社 御田

住吉神社 御田住吉神社 御田

 

カメラクラブ員 住吉撮影會 明治34年(1901)3月3日

カメラクラブ員 住吉撮影會 明治34年(1901)3月3日カメラクラブ員 住吉撮影會 明治34年(1901)3月3日

カメラクラブ員 住吉撮影會 明治34年(1901)3月3日カメラクラブ員 住吉撮影會 明治34年(1901)3月3日

 

住吉公園の原風景を彩る生物たち

―「御田」のハマヒエガエリ―

御田植神事の風景 平成24年撮影
御田植神事の風景 平成24年撮影

住吉大社の創建以来行なわれていたとされている神事に「御田植神事」があります。

稲作文化は、縄文時代後期頃には日本に伝来し、それまでのクリやカシなどを採集し主食とした縄文文化を駆逐して、弥生文化が成立していったとされています。

日本には、「五穀」という言葉があり、「米、麦、粟、稗、豆」を指すとされていますが、一つ異色なものが含まれます。それが筆頭に出る「米」となります。

イネは、元来熱帯地域の植物ですから、他の四種と違って、日本の冬を越すことができません。日本中に水田・陸田がありますが、自力で春を迎えられる雑草化した「イネ」は、温暖化の進んだ現在でもないのです。ですから、イネは人間の手で冬を越す必要があり、伝来して以来ずっと、人の手で管理・保護されてきた珍しい植物となります。そのイネを栽培する水田は、それぞれの時代の植物相を写すものになりますので、大社の「神田」のように神事として、古代より守り続けられた水田の植物相は、非常に貴重なものとなります。

さて、大社は上町台地の海側段丘上にあります。江戸前期の大社の景観がよくわかる『絵本直指宝』の「住吉名所之図」を見ますと、大社西側には海が迫っていますが、小河川による陸地化も見られ、海水・汽水・淡水が複雑に入り組んでいます。(下絵図③参照)

これが、元禄17年(宝永元年 1704)の新大和川付替工事以降には、多量の土砂の海への流出によって、堺津も住吉の浦も埋められ、北島・南島・加賀屋・萬屋新田が造成される基になり、ついには「咲洲」までが伸び出し、我々が中学の社会で習いました「大阪府は日本で一番面積が小さいけれど、日本を牽引する都市や」と云う誇りを打ち砕いて、面積で香川県を抜いてしまう下地ができたのでした。

このように大社を取り巻く景観は変化しましたが、農耕地と云うのは面白いもので、同じ場所で、同じ技法で作られていますと周囲の環境が変化しても変わらない部分が生まれてくるのです。この一典型が「御田」に随伴する雑草群になります。

御田のレンゲ 令和元年ハマヒエガエリ

御田のレンゲ 令和元年/ハマヒエガエリ

平成25年(2013)に大阪市立自然史博物館によって「御田」の植物調査が行なわれました。この時に見つかった植物の中に「ハマヒエガエリ」があります。この植物については、調査された長谷川匡弘氏が住吉大社の社報でも紹介されていますが、再度ここで紹介したいと思います。

日本の植物相を表現する言葉に「海浜植 物」と云うのがあります。文字通り海岸部でも生育できる植物たちで「ハマアザミ(浜薊)」、「ハマヒルガオ(浜昼顔)」、「ハマダイコン(浜大根)」、「ハマユウ(浜木綿)」などがあり、ハマ(浜)の字を持つものが多くあります。

ただ、海浜植物にも二つの型があって、浜辺の環境に完全に適応しているものと、若干塩水に耐性があるので淡水域から汽水域まで生育できるものがあります。

さらに、「アワガエリ(粟環り、粟返り)」や「ヒエガエリ(稗環り、稗返り)」の名前を持つ植物をご存知でしょうか。漢字標記で読んだ方が分かり易いのですが、それぞれ、粟や稗から変ったものの意で、全く遠縁の別種植物に作物として重要であった粟、稗の名前が取り入れられた例になり、ここで冒頭に紹介しました「ハマヒエガエリ(浜稗返り)」という名前が完成しました。

この植物は、海浜植物の二型の中の後者にあたっていて、汽水域から淡水域まで生育できるのです。そのため、海が近かった時代に汽水に強い植物として侵入し、現在のように完全な真水の田になっても生育を続けて行けたと思われます。

この場所が、住吉の浦近くであったことがうかがえる貴重な生き残りと云えるでしょう。(寺田孝重)

昭和初期の御田植神事 住吉大社蔵
昭和初期の御田植神事 住吉大社蔵
写真に見られる御田は淡水域にあり、下絵図、図①、②、③の気水域から淡水域にかけての江戸初期の情景や、右面中段の右上2枚の明治中期の写真の光景とも重ね合わせてみてください。(水内俊雄)

 

「住吉名所之図」(住吉大社御文庫所蔵『絵本直指宝』より)

本図は、住吉大社と周辺の景観を描いた社景図で、江戸中期に活躍した狩野派の絵師、橘守国(1679―1748)の絵手本集『絵本直指宝』延享2年(1745)刊に収録するものです。

近世住吉の社景図には、寛政6年(1794)『住吉名勝図会』収載図、同8年(1796)『摂津名所図会』収載図、文化10年(1813)『摂州住吉宮地全図』などが知られるが、本図はそれらより半世紀以前の刊行になります。

図①から②にかけて、「玉川」(細江川)と神社との間には、丸山稲荷のある古墳(円塚)と「ばくらうが池(博労ケ池)」があり、古く池沼であったことがうかがえます。さらに、現在の住吉公園は海岸の松原あたりになり、名勝「長峡浦(ながおのうら)」の旧跡を示しています。また、図③④⑤は住吉大社や神宮寺ほかの社殿が整然と並んでいますが、図⑥の上方の丘陵には帝塚山古墳とおぼしき「てい王山」と松林「ひめ松」があり、下方の海辺には「かたまがはま(勝間ケ浜)」という古称が見えており、往時の地理情報を得ることのできる貴重な絵画資料といえます。(小出英詞)

「住吉名所之図」

図①

「住吉名所之図」

図②

「住吉名所之図」

図③

「住吉名所之図」

図④

「住吉名所之図」

図⑤

「住吉名所之図」

図⑥

 

住之江公園誕生

住吉公園の歴史的経過を語るのに住之江公園の誕生を抜きには語れません。公的なものでは大屋霊城氏の「住江公園工事概要」(昭和五年十月)に詳しく記されています。

まず、住之江公園が誕生するまでは第二住吉公園や新住吉公園との記載もみられますが、この報告書では「住江公園」の名称が使われています。その誕生の理由は、大阪市―和歌山市間を連結する当該地区の道路、難波住吉線の大阪市界北島町までの延伸です。本道路は当時、国道16号と呼ばれ、「東京市より(現国道1号経由、大阪で分岐)和歌山県庁所在地に達する路線」であり、大正9年(1920)施行の旧道路法に基づく路線認定で昭和27年までの旧十大放射路線にあたり、ご存知、現在の国道26号です。因みにこの路線は、現在の国道24号(当時15号 昭和5年)や国道42号(当時41号 昭和20年)にも指定されています。

昭和3年(1928)大阪都市計画図(住吉・住之江公園付近)
昭和3年(1928)大阪都市計画図(住吉・住之江公園付近)

この道路計画による公園の貫通という事態は、当時、全国の運動公園の先進事例ともいわれたその運動場を廃止せざるを得ない結果であり、その代償としての機能の充実を目途として拡張、新公園が提案され誕生に至ったと記されています。興味深い新公園の規模や位置、またその施設計画については大阪府公園調査委員会に付議されており、大正14年(1925)3月に府議会への報告をもって可決されています。この内容に関しては、大阪府公園OBボランティアの荒木美喜男氏が「住之江公園の建設とその後の経緯について」として資料にまとめられ、府会議事録などの報告に詳しく記されています。

そのような中、大正14年の新市域拡張を受け、昭和3年5月に、都市計画大阪地方委員会は内務省の審議を経て、「総合大阪都市計画」の公園計画として大公園(面積3千坪 1ヘクタール以上)33ヶ所、小公園13ヶ所、公園道路12線を都市計画決定しました。

これに先立つ形で、住之江公園は昭和2年10月18日に起工され、昭和5年10月18日竣工、工費は69万円でした(今の価格にして約10億円に相当します)。報告書には、公園の全景が示された航空写真や16枚の写真、工事後予想図としてのパースが挿入されており、当時を知る貴重な資料だといえます。

一方で、住吉公園は東側を南海鉄道線路に、西側を新設大阪都市計画路線により三分され、公園機能が低下したことから、園内の一部の官有地の払下げを求め、その売却代金を以て住之江公園新設の財源に当てようとしました。しかし、この用地取得には府独自に20万円を公園積立金より、15万円は一般会計の投入より計35万円を計上され、当該新設土地関係者の濱田甚兵衛及び大塚別途会社の協力を得て大正15年内に用地の買収完了を見ました。また、工費25万円については、15万円が南海鉄道株式会社、6万円は阪堺電気鉄道株式会社の寄付により、その他は公園改良費より支出した、とあります。

大阪市は過密化とスプロール化という都市問題に直面しており、大阪湾部は低湿な水田地帯ではありましたが、この一帯で、土地区画整理事業等の地域開発による地価の高騰も想定されました。住之江公園はそれまでの官有地などの土地の無償使用とは異なり、用地取得を前提としたため、事業費増を抑えることも含めて新公園の早期建設の追い風となりました。公園西側に接する新阪堺線(阪堺電鉄 南海鉄道阪堺線の路線の区別の呼称)は昭和2年10月に芦原橋―三宝車庫前が開通、住之江公園駅も開設され、堺市内を事業区域として浜寺駅の区間まで営業しました。また、本路線は南下して大和川公園に連絡し、公園道路の性格を持っていることがうかがえます。公園道路といえば、住吉公園と住之江公園を結ぶものが、当時の大阪朝日新聞において「住吉川に長狭三十間幅二間の橋梁を架橋し新公園と住吉公園の八丁の間を八間幅の並樹道路を通じて連絡を図ることとなってゐる(注)」と示されており、昭和7年3月には、住吉駅から高燈籠までアスファルト舗装の自動車専用道路として工事完了した旨が報じられています。これも公園と公園を結ぶ公園道路の発想に基づいたものと考えられます。

ところで、面白い話があります。住吉公園の運動場が廃止され、住之江公園の運動場はプレイフィールドという公園の施設らしい位置づけでした。大阪市には当時、築港の市立運動場があるじゃないかという声もありましたが、大屋霊城氏は、「築港の市立運動場はスタヂュームであって公園ではない。スタヂュームは市のスポーツの代表施設で、それはそれとしてのシンボル的なものであるが、多目的使用のプレイフィールドのような公園施設は一つや二つでも足りぬ。第三、第四、第五の住之江公園といったようなものが必要」と述べています。(繁村誠人)

田邊公園附設公園道路
(1933年以前)
この図の出典:「住吉新地は菖蒲園へ移転 一ヶ月間の期限つきで 府当局から突如指令」 大阪朝日新聞 昭和9年6月2日付
(注) 大阪朝日新聞引用箇所の出典
「新公園道路―近く舗装に着手 住吉―住之江兩公園」 大阪朝日新聞 昭和7年3月10日付
参考文献
八尾修司:近代大阪における公園系統計画の策定過程とその計画思想
京都大学大学院修士論文,2015

 

 

発行:

都市公園住吉公園指定管理共同体
(株式会社美交工業・NPO法人釜ヶ崎支援機構)

 

お問い合わせ:

住吉公園管理事務所 電話 06-6671-2292

 

編集委員:

水内俊雄(大阪市立大学)、小出英詞(住吉大社)
寺田孝重(苅田土地改良記念コミュニティ振興財団)
繁村誠人(NPO法人 国際造園研究センター)
櫻田和也(NPO法人 remo記録と表現とメディアのための組織)

 

協力:

八尾修司(京都大学大学院景観設計学研究室 2014年度修了)
南健志(大阪府)、荒木美喜男(大阪府公園OBボランティアの会)