「住吉公園歴史探訪」第5号


住吉公園

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「住吉公園歴史探訪」第5号

  • 2019年12月 2日(月) 17:53 JST

住吉公園150年記念事業
「住吉公園歴史探訪」第5号
歴史探訪 第5号
発行日:2019年12月1日
(季刊:3月・6月・9月・12月発行)

明治6年に開設された大阪府営住吉公園は、2023年に開設150年を迎えます。「住吉公園 歴史探訪」では、住吉公園150年記念事業として住吉公園の歴史をたどり、開設当初からどのように利用され、どのような変遷を遂げてきたか、悠久の歴史に想いを馳せてみたいと思います。

住吉公園で催行された競馬式

昔は、住吉公園のあたりは「馬場の松原」と呼称される住吉大社境内の松原が広がっていました。今回はこの馬場について紹介します。

馬場とは、馬に乗ったり走らせたりする広場のことです。住吉大社の馬場であったのが、現在の住吉公園の敷地を含んだ広大な松原でした。少なくとも鎌倉期より住吉大社では、この松原において五月五日に競馬式「住吉競馬(くらべうま)」が行われてきました。『住吉名勝図会』によれば、五月五日の未の刻(午後一時から三時頃)、乗尻(のりじり)(騎手)十人が饗膳の後、社殿の前から松原まで馬を東西に走らせて五番勝負を行なったとあります。古式の競馬といえば京都上賀茂神社の競馬会神事がよく知られますが、住吉でも盛大に行われ装束も異なっていたようです。

明治5年(1872)、新政府による諸制度の改正によって住吉の競馬式は中止となり、翌年の住吉公園の誕生以後、馬場の松原は公園地として利用されるようになりました。その後しばらく競馬式は忘却されていましたが、明治29年(1896)、競馬式を再興するため、神社側から大阪府に対して公園地使用願の届出があり、4月16日付で許可となりました(住吉大社文書「競馬式再興ニ付式場御願」『明治廿九年諸願届』所収)。予定では4月19日でしたが、雨天のため延引して5月に執行されたようです。その後、5月の日曜日に執行することになり、明治34年(1902)まで毎年競馬式が行われました。ただし、最後の年は、公園ではなく神社境内の大海神社前で執行されたようで、明治35年以降は全く廃絶してしまいました。

なお、明治31年には公園内を渡御する宝之市神事が始まりました(既刊の本紙第3号に関連記事)。明治に分離した神社と公園がコラボレーションした祭礼行事であったことにも注目されます。あと一つは現行の神輿洗神事がありますが、号を改めて紹介します。(小出英詞)

江戸時代の住吉競馬の様子(『住吉名勝図会』五月五日競馬)
江戸時代の住吉競馬の様子(『住吉名勝図会』五月五日競馬)

 

再興した競馬式の汐掛道使用図(住吉大社文書『明治四年以降当社旧記附属地取調綴』)
再興した競馬式の汐掛道使用図(住吉大社文書『明治四年以降当社旧記附属地取調綴』)

 

 

現在の汐掛道の風景現在の汐掛道の風景

現在の汐掛道の風景 現在の汐掛道の風景

現在の汐掛道の風景 この道筋を舞台にして競馬式が盛大に催行された

 

汐掛道のその先は?

―住吉浦の変遷と住吉川―

江戸後期:大湊一覧(19世紀初頭)
江戸後期:大湊一覧(19世紀初頭)

 

江戸後期

一九世紀前半に描かれた描写豊かな「大湊一覧」を参照ください。一面で取り上げられた汐掛道は、高燈籠で海岸線を迎えることになります。江戸期の始め、「長峡(ながお)浦」と呼ばれたこの海面は、もっと広い範囲を指していたと思われ、当時の旺盛な新田開発により、十三間堀川が出来ました。そこに架けた橋を「長峡橋」としたため、「長峡浦」や「長峡浜」と呼ばれたようです。この海面は、諸新田にはさまれ、一般には「住吉浦」、絵図では「住吉沖」と記されており、海面は葭原地として描写されています。

明治期

1885年の地図では、この海面は、汐掛道の先、十三間堀川を越えた所にありました。その「住吉浦」は埋め立てて狭められた結果、「住吉川」と名を変えました。赤丸を付した田地には、汐掛道から西に直結する形で、道が伸びています。史料によれば、「大阪府下摂州住吉神社前葭生場開墾」という件名で、1871年作成の太政官文書として残っているので、明治初期になって埋め立てられたようです。

大正末期

このエリアが大大阪市の住吉区となった頃の地図を見ると、当該の田地は、「住吉土地会社経営地」と記されています。その先も埋め立てられ、大阪土地建物株式会社の経営による市街地として設えられ、住吉川は現在の形をとるようになりました。この地図では、高燈籠の先は「長狭濱」と記され、その南には菖蒲園が開園しています。

昭和初期

ほぼ同時期の空中写真を見ると、当該の地は、周りの新田の黒い描写より白く見え、造成中であることがわかります。また従前の新田の区画の形状も確認できます。汐掛道から伸びる道路も現れ、赤丸の南には姫松橋が架橋され、西側には新阪堺電車が開通しています。そして住之江公園の造成が始まった状況も見てとれます。

 

住吉、住之江両公園を結ぶ公園道路が新市街地に登場

昭和十年代前半

全面的に耕地整理事業や土地区画整理事業が進み、赤丸の北側で桜井、西側で西加賀屋の組合名で事業が実施されます。南側は御崎土地区画整理地区となり、菖蒲園の地に住吉新地が移転してきました。1934年、汐掛道の延伸道路は、都市計画に基づき、住吉公園より長狭橋を通り、西に住之江公園へとつなぐ形で緑道が計画されました。その一部を「住之江公園平面図」より切り取って付しました。4号で紹介されていたように、これが「公園道路」であり、「八間幅の並樹道路」で両公園をつないでいました。地図にはその公園道路が住吉川の北側に、緑色で帯状に描きこまれています。

昭和戦時期

堀川近くで市街地化が進みますが、姫松橋を挟んで西側にはまだ空閑地が多く見られます。西の新阪堺電車の住吉川電停付近でも建物の建築が盛んに見られます。公園道路は黄色の囲い線で示したように住吉橋から東に幅広の植樹帯のようなものが配され、高燈籠まで伸びており、実際に築造されたことがわかります。残念ながら、現在その面影は殆どありません。(水内俊雄)

 

各地図、写真上の 印周辺 高燈籠にご注目ください

明治期:2万分の1地形図(1885年)大正末期:大阪市大地圖(1925年)

明治期:2万分の1地形図(1885年)/大正末期:大阪市大地圖(1925年)

昭和初期:大阪市撮影空中写真(1928年)昭和十年代前半:最新の住吉区(1938年)

昭和初期:大阪市撮影空中写真(1928年)/昭和十年代前半:最新の住吉区(1938年)

昭和戦時期:大阪市撮影空中写真(1942年)

昭和戦時期:大阪市撮影空中写真(1942年)

 

住吉公園の原風景を彩る生物たち

―「御田」のオギョウ―

住吉大社の「御田」にまつわる植物として、前号で「ハマヒエガエリ」を紹介しましたが、今回は「春の七草」にも詠われているおぎょう(ごぎょう、御形、ハハコグサ(ホオコグサ)母子草)を取り上げます。

前号にも述べました大阪市立自然史博物館による「御田」の植物調査に、「ハハコグサ」が上っています。

「春の七草」は、「せり(芹)、なずな(薺)、おぎょう(御形)、はこべら(繁縷)、ほとけのざ(仏座)、すずな(蕪)、すずしろ(蘿蔔)これぞ七草」と詠われているのは、皆さんもご存知でしょう。

山上億良の「秋の七草」の歌が有名なせいか、万葉集の歌と思っておられる方が多いようですが、これ自身は鎌倉期の本に出てくるものです。

一方、万葉集などには「若菜」や「春菜」が見られます。例えば、「明日よりは、春菜摘まむと標めし野に、昨日も今日も、雪は降りつつ」などと表現されています。この「春菜」の中味を示していますのが「春の七草」の歌であり、収録されたのは鎌倉期ですが、それよりずっと古くから言い伝えられていたと考えられます。

さて、「春の七草」「秋の七草」と並べられますが、それの持つ意味合いは、全く違うものになります。

「秋の七草」は、収穫の喜びと未来への予祝(前もって祝うことで、将来に良いことがおこる事を願う。)を示しますが、「春の七草」は、もっと切実で、冬の食料の貯えがつきかけた時、雪の間に芽生えた、この若菜を食べて、なんとか春を迎えるのです。しかし、山野草には勿論食べられるものと有毒 なものがあります。有名なものに「毒芹」などがありますが、特に芽生えの状態では判断が難しいのです。昨今でも、有毒山野草による中毒事件が後を絶ちません。この歌は、本来作物であるすずな(カブ)、すずしろ(ダイコン)を除くと、食べられる野草の名前を教えているのです。

この中で、現在でも雑草として普通に見られるのが、なずな(ペンペングサ)や、はこべら(ハコベ)であり、おぎょう(ハハコグサ)と、ほとけのざ(コオニタビラコ)は、ほとんど見られなくなっています。ところが、これらが見事にセットになって生育しているのが、「御田」ということになります。(写真1)

早春の御田風景(写真1)住吉神社 御田 上田貞治郎写真コレクション

早春の御田風景(写真1)/住吉神社 御田 上田貞治郎写真コレクション

 

前号においても、『住吉名所之図』で絵画に描かれた「御田」を紹介しましたが、今回は神社の建物配置絵図で「御田」の位置を見ておきます。

「御田」の前にあるのは、御田植着座所で「御田」と一体になった施設であり、「御田」の位置を示すものでもあります。

このような場所が御田植神事の舞台であり、現在の写真1のような状態の水田に、雑草としての「春の七草」が見つかったことになります。

さて、古名おぎょうまたはごぎょう(御形)ですが、現代の名前をハハコグサ(母子草)と言います。全身を白い綿毛に包まれたキク科の植物で、同属のチチコグサ(父子草)と共に、以前はよく見られましたが、都市化と共に見られなくなりました。歌で有名なエーデルワイスなどに近い植物で、食用・薬用になり、ヨモギと同様に草餅に利用されます。一説には、元々草餅にはハハコグサを使っていたのですが、母と子を臼でつくのは忍びないのでヨモギに代わったということです。

ハハコグサ 大阪市立自然史博物館学芸員 長谷川匡弘氏 提供

ハハコグサ 大阪市立自然史博物館学芸員 長谷川匡弘氏 提供

 

御田の植物リストにチチコグサはありませんので、やはり、環境への適応性だけでなく、何かの人為が加わったのかも知れません。(寺田孝重)

 

住吉神社の建物配置絵図(住吉大社蔵)

住吉神社古図 宝永元年(1704)以前頃住吉神社境内之古図(百済文庫印) 宝永5年(1708)以降頃

住吉神社古図 宝永元年(1704)以前頃/住吉神社境内之古図(百済文庫印)宝永5年(1708)以降頃

摂津国一之宮住吉神社境内社領絵図面 18世紀中頃(1700年代中頃)住吉大社建物享和焼失図 享和2年(1802)

摂津国一之宮住吉神社境内社領絵図面 18世紀中頃(1700年代中頃)/住吉大社建物享和焼失図 享和2年(1802)

 

日本初の公園祭は住吉公園で開催

大阪で昭和7年(1932)7月25日、26日に公園祭の第1回が住吉と住之江公園で開催されました。公園祭開催の先鞭をつけ、予想外の賑わい振りが大阪公園協会の会報「公園」の第一巻第一号で詳しく紹介されています。

戎橋の夜景に憧れて集る群衆の眼に、電光ニュース「廿五、六日面白い公園祭電車半額で住吉、住江へ行きませう」がギラギラギラと光りだしたのは、それより一週間前であったが、新聞でも毎日のように宣伝して、そのプログラム等が掲げられた。為に集まった群衆は無慮十万人と算されるが、特に第2日は午前より午後に引っきりなしに人が続いて、住江の新しい公園も心斎橋筋と選ぶところはなかった。

プログラム中第1日目は、住吉では学生角力大会が人気の中心で、夜に入って野外の活動写真とレコードコンサート琵琶大会、それに公園内茶店組合が奉仕的に出したビール半額売出しが大当りである。美人の無料サービスであるというので、夜はこの付近大入り満員であった。

どこへ行くも、市電や郊外電車に乗らなくては行けぬ。幸い南海電鉄も、阪堺電鉄も、私共の趣旨に共鳴してくれて、未だかつて行ったことのない破格的の割引をしてくれた。即ち半額サービスをやった。しかも特に公園祭のために「公園祭パス」という特別の切符を発行して、この挙を記念してくれたのである。

「公園」第一巻第一号 表紙
「公園」第一巻第一号 表紙

この大阪公園協会とは、昭和8年(1933)5月13日に「招来煤煙都市の緑化の指針たるべき官民合同の公園指導機関」として発足し、公園および緑樹地帯に関する調査研究並びに公園の利用と植物愛護に対する思想の普及発達を図るなど、多くの事業を遂行して健康都市の建設に資することを期待されたのであります。これまで「大阪府住吉公園改良工事竣工報告書」や「住之江公園工事概要」の報告で紹介された大屋霊城氏も理事として本協会の立ち上げに尽力されています。当時の縣 忍(あがた しのぶ)府知事が会長で、理事長が三輪周藏土木部長、大阪市長関 一氏を顧問という陣容でした。この協会の発足式は第2回公園祭が開催されたその初日、箕面公園の公園内、弁財天にテント張りの式場で行われました。更に第3回浜寺公園での開催は大阪府と共に大阪公園協会の主催となっており、この号にはこれらの開催状況も掲載され、当時を知る貴重な資料として後世に受け継がれています。

当時は水都祭などのイベントが各施設で開催されていましたが、住吉・住之江の「公園」という名を冠した祭は全国に先駆けての開催でした。大阪での公園祭が大成功に終わったこともあり、東京でも翌年には日比谷公園創立八十年祭が行われ、8月には名古屋市が公園祭を挙行しています。

なお、今回はこの資料をもとに三輪理事長を含む本誌の稿より、大阪公園祭の開催趣旨を紹介します。

昔の人の多くは都市に住むことを余り好まなかった様であります、それは昔の都市は多くの人が秩序もなく只方々から寄り集りまして一つの部落をなした処でありますから、住み心地が良くなかったからではないかと考えられるのであります。しかし世の文化は都会に著しく発達しまして諸機関の設備は整い人間の住み場所としましても、また働き場所としましても、愉快な処となりつつあるのであります。ことに欧米における或る都市の如きは実に人生の楽天地であり、文化の中心地であると考えられるまでに進んで参ったのであります。でありますから、世界の大勢を見ましても人間の大部分は都会生活を希望し都市に憧れて田舎に住むことを嫌う様になりつつあるのであります。

大阪公園協会発会式
大阪公園協会発会式

交通とか運輸とかの施設に就きましては、昨今わが国に於きましても著しく進歩して参りましたが衛生とか休養とかの方面に於ける設備に就きましては欧米とは格段の相違がありまして遺憾ながらお恥かしい次第であります。

特にわが国の都市の欠陥としましては下水道の不完備と緑地帯即ち樹木や丘陵や池などの自然そのままの形を備えた空地の少ないことであります。

今日の都会生活では公園の増設という事はもちろん、急務であるが現在の公園を今少しく市民に利用さす習慣を作ることも急務中の急務である。公園が出来ても、市民がこれを利用してくれぬために、日常ルンペンの集合所となり、宿泊所みせられている公園も沢山あるが、これは全く公園を公園として利用してくれる人が日常少ないためである。

公園運動場の利用習慣を養い、市民の保健衛生に寄与し健全な体育娯楽をとるの風習を起さしめるためには、時々かかる馬鹿げた公園祭も必要であると思う。

住江公園で公園祭を挙げました時に大阪にこんな気持の良い公園が出来ていたことは今迄全く知らなかったと言って感心した人がたくさんありましたが、折角大阪府で大金を費やしまして作り上げました公園を一年も二年も知らずにいる人さえある様ではまことに心細い次第でありまして私共当事者にも相当の責任はありましょうが、今少しく市民の方々も御自覚願いたいのであります。

そもそもかような御祭さわぎを何のために府は計画したか、といえば別に仔細はない、ただ市民がこの頃の不景気で気を腐らしている、やれ満州問題、やれ農村救済問題、やれ世界的の不景気襲来といったように、見るもの聴くものことごとく陰鬱である、しかも梅雨中はなお更のことである。

博多で、毎月五月かに「ドンタク」という御祭をやる。あれは確かにこの意味の祭りであるように感じる。博多の「ドンタク」ああした市民の気持ちを味わすのが、この公園祭の目的である。

すべての人が呑気に愉快におどる、はねる、朗かに唄う、舞う、飲む、食う、そして遊ぶといったような気分に成り得る日が年に一度や二度あってもいいと思う。都会生活が日常余りに乾燥気味であるために、人々の気持ちに潤いが足りない、いわゆる文化生活に不自然が多い。この方面への清涼剤として公園の利用、郊外への散歩という事はかくべからざることの一つである。

このような趣意を持って行われたことを知り、当時の各界の公園への情熱を再認識しました。(繁村誠人)

参考文献:「公園」第一巻第一号 大阪公園協会 発行 昭和8年12月11日(5・6・10・11・12・14・15頁を筆者が引用して記述)

注:引用文中における差別的表現・差別用語について、歴史的史料であることを鑑み原文を掲載しております。

 

 

発行:

都市公園住吉公園指定管理共同体
(株式会社美交工業・NPO法人釜ヶ崎支援機構)

 

お問い合わせ:

住吉公園管理事務所 電話 06-6671-2292

 

編集委員:

水内俊雄(大阪市立大学)、小出英詞(住吉大社)
寺田孝重(苅田土地改良記念コミュニティ振興財団)
繁村誠人(NPO法人 国際造園研究センター)
櫻田和也(NPO法人 remo記録と表現とメディアのための組織)