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住吉公園

 2021年4月20日(火) 13:34 JST

「住吉公園歴史探訪」第9号

  • 2020年12月 1日(火) 08:30 JST

住吉公園150年記念事業
「住吉公園歴史探訪」第9号
歴史探訪 第9号
発行日:2020年12月1日
(季刊:3月・6月・9月・12月発行)

明治6年に開設された大阪府営住吉公園は、2023年に開設150年を迎えます。「住吉公園 歴史探訪」では、住吉公園150年記念事業として住吉公園の歴史をたどり、開設当初からどのように利用され、どのような変遷を遂げてきたか、悠久の歴史に想いを馳せてみたいと思います。

大正期住吉公園の茶屋と周辺

大正6年(1917)南海本線の旧住吉駅は住吉公園駅(現住吉大社駅)へ統合された結果、駅舎の改築、線路の複々線化、停留場地下道の敷設などにより一新されました。同じ頃に住吉公園の改良計画が開始され、園内にあった数多くの茶屋も段階的に周辺部へ移転、整理が進められました。大正8年(1919)頃までには茶店十三戸を園外に、二十七戸を当時園内であった南海本線以東と公園西側へとそれぞれ移転させました(昭和28年『住吉区誌』)。ただし、一部の料亭は娯楽休養的施設として園内に残存が認められました。その中でも最大の規模を誇ったのは小山楼でした(※本紙第八号参照)。

小山楼のルーツは旧住吉新家にあります。明治16年(1883)の『住吉堺豪商案内記』によると、住吉大社の北鳥居前に「小山店」(小山宇之助)の名があり、住吉参詣の講社の御用達であった割烹店でした(※本紙第6号1面参照)。明治中期には公園内に移転して温浴施設を備えた大料亭を営むようになりました(現在の江川橋北詰の北西域、心字池の南西岸から野球場にかけての場所)。ちなみに、現存する住吉公園の標石(明治33年建立)には、その発起人に小山楼の主人・小山宇之助の名が刻まれています。

住吉公園温泉旅館(小山楼か) 個人蔵 大阪市木津市場魚仲買組合創立総会集合写真
住吉公園温泉旅館(小山楼か) 個人蔵 大阪市木津市場魚仲買組合創立総会集合写真

大正期には、小山楼の経営が小山家から辻川治助(1844~1928)の手に移りました。辻川治助は、元は難波新地の難波停車場前にて「明月楼」を創業した人物で、大正期には堀江新地の旧清水橋西詰にも出店し、のちに難波を引き払って堀江明月楼を本店と定めました。やがて、住吉公園の小山楼を買収、さらに住吉公園の西方の菖蒲園に大規模な料亭「新明月」を開業させました。晩年の治助は、長男の常之進に明月楼本店を譲り、二男の梅三郎を分家させて住吉公園の小山楼を継承させました(後に新明月も継承)。三善貞司編『大阪人物辞典』にも項目がある人物です。

茶屋の多くは仕出し料理が主でしたが、小山楼をはじめ廣田家、菊水、岸の舘などは自前の料理を提供していました。茶屋では配膳や接待などを行なう仲居、遊興を提供する芸妓などが貸席に出入りするなか、臨時雇いのヤトナ(雇仲居)が横行していました。

住吉公園「小山楼」集合写真(提供 奥村武雄氏)
住吉公園「小山楼」集合写真(提供 奥村武雄氏)
右端に洋礼装の男性のほか、男女の従業員がならび、男性の衿元には、左に「住吉公園」、右に「小山楼」の文字が染めぬかれている。

これらの風紀上の取締りを目的として、大正11年4月4日、公園の隣接地に「芸妓指定地」を定めることになりました(現在の住之江区浜口東・浜口西の一部)。いわゆる「住吉指定地」あるいは「住吉芸妓指定地」のことで、昭和九年に移転命令となった旧住吉新地(住之江区御崎一・二丁目付近)の前身です。大正13年(1924)には置屋十五軒、芸舞妓四六七名、料理屋等一三八軒を数えました(『墨江村誌』)。近隣の飲食業による新春の名刺広告を掲載した『覿てきめんはつざい』(大正十五年正月、住友会発行)には、小山楼とともに、現在も営業する廣田家(住吉区長峡町)の名も記載されています。(小出英詞)

 

荒廃する住吉公園

~明治中期から後期にかけての変貌~

令和2年5月、明治中期・後期の住吉公園測量図(以下図面という)が見つかりました。作成されたのは明治28年(1895)と同41年(1908)です。

この図面についての説明資料がないため、図面に記載されている内容について、一つにはこの二つの測量図が作られた目的は何か、もう一つにはこの図面で分かる当時の住吉公園はどのようなものであるかを検証していくことにします。

通常新しく図面が作成される目的としては区域の変更(計画、開設)、施設内容の大幅な更新(新しく管理施設・内容が発生した場合)などがあります。

明治28年の図面の凡例を見ると測点、境界杭、建家、松林、雑木、草生、池、砂、燈基、公衆便所が上げられています。同41年の符號(凡例)では公園界、鉄道、橋梁、道路、河川、池沼及田、花木園、社地、築山、民有地、堤防、石垣が上げられています。

明治28年 住吉公園実測地図

凡例から見て明治28年の図面作成の目的は、公園区域の測量及び杭の設置が第一義で、次いで民有建築物の配置状況、植生状況など現状把握であったと思われます。では公園区域の測量がなぜ必要であったのでしょうか。判明している前回の測量は明治8年10月に行われたものです。その図面(※本紙第一号3面参照)と明治28年の図面を比較すると、十三間堀川と公園本体の間にあった細長い公園区域が無くなっています。今まではこの区域がいつ公園区域から削除されたのかがわかりませんでしたが、28年の図面が見つかり、測量と境界杭の設置が行われているため公園区域の変更が考えられることから、この時期に削除された可能性が出てきました。

次に、民有建築物が表示されていることの意味を考えてみます。この頃から園内では茶屋が増えはじめ、借地が徐々に始まり、今後増大する傾向がみられることから、現状を把握するために凡例の3番目に挙げたと思われます。民有建築物の増加は明治18年に阪堺鉄道(現南海鉄道)が開通して十年が経過し、住吉神社参拝の手段が街道筋を徒歩で行くことから鉄道利用に変わり、それに伴い街道筋が寂れ、街道筋の色々な施設が人の流れに合わせて公園へと移ってきたことによるものと思われます。

さらに「松林、雑木、草生」からはこの時期の風景は松林が主体であったことがうかがえます。それを説明する資料に大正9年5月の「大阪府住吉公園改良工事竣工報告書」(※本紙第7号4面参照)があります。そこでは、「明治の中葉迄は現在公園の地も未だ人家無くただあしおぎただあしおぎの繁茂せるていしつていしつの地にして、其の間黑松の亭々として繁り」とあります。図面を見ると松林は全体的な広がりを見せています。草生は池や川沿いに展開していることからあし蘆、おぎ荻と考えられます。雑木の多くは材木川沿いにみられることからアカメヤナギ、カワヤナギなどのヤナギの類が考えられます。

最後に「砂」が凡例に挙げられています。図面を見ると松樹の根元と公園南東に大きな砂原がみられますが、通常では凡例にあまりあげられることがない砂が特に明記されていることから特別な意味が考えられ、住吉神社が行っていた砂持神事や松苗の植樹と関連があるものと思われます。

明治28年実測図に植栽、水面などを彩色した複製図(荒木作成)
明治28年実測図に植栽、水面などを彩色した複製図(荒木作成)

 

明治41年 大阪府住吉公園地図

次に41年の図面について考えてみます。先に符號(凡例)を上げていますが、そのうち花木園、社地、築山、民有地がこの測量図の特徴といえます。

先ず民有地ですが、これは公園地の借地であり、図面には区域と黒字で一連の通し番号、朱字で1から5まで番号が示されています。実はこの図面が作成される前年の明治40年2月11日に「大阪府公園地使用規則」の改定が行われ、借地の等級が新たに設けられました。その内容の概略は次の通りです。

明治28年2月測量 住吉公園実測地図
明治28年2月測量 住吉公園実測地図

明治41年4月実査 大阪府住吉公園地図
明治41年4月実査 大阪府住吉公園地図

明治41年公園地図に家屋や水面を彩色した複製図(荒木作成)
明治41年公園地図に家屋や水面を彩色した複製図(荒木作成)

 

規則第十四條では、一年以上の使用とそれ以下の使用に分類し、一年以上を更に公衆の利便を目的とするものを第一種とし一等から六等に、せざるものを第二種とし一等から三等に分けています。使用料は第一種一等では四拾銭/坪・年、以下二等は参拾五銭、三等は弐拾八銭、四等は弐拾弐銭、五等は壱拾五銭、六等は拾銭という内容でした

ちゃみせしゅろう、料亭などは公衆の利便に資するものとして第一種に挙げられ、その土地の利用価値に応じて一等から六等まで分類されました。この図面では一等から五等まで記載されており、公園管理者は規則の改定にもとづき公園地借地の等級を決め、その管理用として作成されたものと考えられます。このような図面は、当時公園内に茶屋などがあった箕面公園や浜寺公園でも作成され、管理台帳と対になるものと思われます。このような図面を見ると公園と言うより歓楽地と見間違えるばかりです。

次に花木園と築山について見ていきます。明治28年の測量図面では松林、雑木、草生と植生についての記載がありましたように、この時までは公園としての植栽による景観づくりはなされていなかったと考えられます。ところが41年では築山の凡例にサクラ園の文字があり、潮掛道沿いの築山にサクラが植わっていたことがわかります。サクラ並木の潮掛道とは今と違った風情があります。また、花木園の一つは大正七年からの改修で作られたつつやまにあたる場所があり、花木園にはツツジ類が植えられていた可能性があります。では、いつの時からこのような樹木による修景が行われていたのでしょうか。それを紐解く資料として、同32年6月に発刊された「南海鐡道旅客案内」があります。そこで住吉公園は「住吉神社の前の松原です、(中略)園内に温泉あり、茶肆あり、酒樓あり、料亭あり、近來は所々の池を堀て蓮を植ゑ、秋草を咲かせ、花紅葉さえ植添へたれば、實に最上の四季の遊散塲、學校生徒の運動會を始め、散歩の遊客いつも松緑りに沙明な間を逍遙しています、此公園も亦日本有數のものです。」と紹介しています。ここで分かるように池を掘って蓮を植え、秋草を咲かせ(秋草とは何でしょう。ススキ、オミナエシなどが考えられますが、昔、住吉神社は萩の花が有名だったそうです。公園と神社の関係を考えると、秋草とは萩と思われます。)、春には桜、秋には紅葉と四季折々に公園が楽しまれていたことがわかります。28年には松、雑木、あしおぎの風景がわずか4年後の32年には桜に紅葉、秋草の花が楽しめる公園に変貌しているのです。このことからすでに28年には公園としての修景や施設整備が考えられていたのではないかと思われます。28年の図面には鉛筆書きで四号池が描かれており、土管で三号池と南側の池に接続する計画が示されています。この計画が「池を掘って蓮を植え」につながっていったものと思われます。つまり28年の測量図は公園の整備計画を作るための現況図を作成したものとも考えられます。

「南海鐡道旅客案内」宇田川文海著
明治三十二年南海鉄道発行、一三二~一三三頁
「南海鐡道旅客案内」宇田川文海著
明治三十二年南海鉄道発行、一三二~一三三頁

今回見つかった28年、41年の面図は、本紙第八号の「住吉神社及公園之真景」とあわせてみると、今までよくわからなかった明治の中期から後期にかけて、茶屋等が乱立した住吉公園の変貌(荒廃)の過程がよくわかります。また、この荒廃が大正7年から始まる大改修につながることになります。(荒木美喜男)

 

住吉公園の原風景を彩る生物たち

―「御田」のハコベ―

 春の七草を構成する植物の中で特異なものに「ハコベ(繁縷)」があります。何が特異かと言いますと、ハコベはナデシコ科に属していることです(写真①)。七草の他のメンバーはアブラナ科・キク科・セリ科と、野菜となる植物が多く含まれる科に属していますが、ハコベの属するナデシコ科は、花の美しいものは多いのですが、野菜と呼ばれるものは少ないグループなのです。  さて、「ハコベ」と簡単に呼んでいますが、植物学的に言いますとなかなかややこしい植物になります。実は「ハコベ」には二種の植物が含まれています。ミドリハコベとコハコベです。まずミドリハコベの呼び名について、葉が紫色を帯びるコハコベに対して緑色が濃いため、この呼び名が付きました。一方のコハコベはミドリハコベより小型ですのでこの名が付いています。通説ではミドリハコベが七草のハコベラだと言われています。

ハコベ(別名 ハコベラ・ヒヨコグサ・アサシラゲ)はどこにでも生えている雑草で、白色の五弁(一枚の花弁がそれぞれ二つに裂開するため十弁に見える)の花弁を持っています(写真②)。

写真① ハコベ写真② 花弁のアップ
写真① ハコベ/写真② 花弁のアップ

昭和30年前後、私が小学生の頃、存命だった祖母が趣味と実益でニワトリの平飼い(放牧)をしていました。3月になると有精卵をもらってきて、コタツの中に電燈を引き入れ保温してふ化させていました。ヒヨコが孵ると雌雄鑑別して最初は土間で育てるのですが、このエサやりが私の仕事でした。ヒヨコが小さい間は、毎日ハコベを一所懸命にさがして米ヌカと一緒に小さくすりつぶしてエサにしていました。今回、ハコベの別名に「ヒヨコグサ」とあるのを見て、なるほどと納得しています。また、エサやりの作業をしていたとき、母が「戦争中にはこれをよく食べたものだ」と話していたことを思い出しました。

エサやりはヒヨコが自力でエサを食べに行くころまで続きます。ハコベは田んぼのあぜ道に行けばいくらでも(5月にはなくなってしまいます)ありました。あの頃のあぜ道の様子を追想させるのが、ゲンゲ、ヨモギ、ハハコグサ、スズメノテッポウなどが混在する住吉大社「御田」の早春の風景です(写真③)。

ところが近頃、ハコベが妙な存在感を見せているのが春の花壇です。パンジーやデイジーが春に咲き始める時、ハコベやその仲間(ノミノフスマ・オランダミミナグサ等)が雑草として賑わってきます。雑草の中でも特にこれらの植物は分枝を繰り返し、花の株にまとわりつくように生育していきます(写真④)。

写真③ 御田の早春の風景写真④ 花壇雑草としてのハコベ
写真③ 御田の早春の風景/写真④ 花壇雑草としてのハコベ

花壇雑草としてのハコベは、細かい根を多数だしてマットのように土の中で広がりますので、除草がやりにくい上に取り残しがちです。大切な花の株を引き抜きかけたり、取り残しが多ければ一週間ほどで元の木阿弥ということになってしまいます。

このようにハコベは、昨今では春の難防除雑草の代表格となっていますが、ほんの少し前までは、有用植物として扱われていました。「御田」に本種が生息していることからも、その名残が感じられます。(寺田孝重)

 

発行:

都市公園住吉公園指定管理共同体
(株式会社美交工業・NPO法人釜ヶ崎支援機構)

お問い合わせ:

住吉公園管理事務所 電話 06-6671-2292

編集委員:

水内俊雄(代表、大阪市立大学)、小出英詞(住吉大社)
寺田孝重(苅田土地改良記念コミュニティ振興財団)
繁村誠人(NPO法人 国際造園研究センター)
櫻田和也(NPO法人 remo記録と表現とメディアのための組織)
荒木美喜男(大阪府庁公園OB)