「住吉公園歴史探訪」第16号


住吉公園

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「住吉公園歴史探訪」第16号

  • 2022年10月25日(火) 00:00 JST

住吉公園150年記念事業
「住吉公園歴史探訪」第16号
歴史探訪 第16号
発行日:2022年9月1日
(季刊:3月・6月・9月・12月発行)

「住吉公園歴史探訪」は第16号の発行をもって1年間休刊いたします。2023年8月の住吉公園開設150年には、記念誌として歴史探訪第1号から第16号までの総括を発刊する予定にしています。どうぞご期待ください!

戦時下の金属供出

―住吉の松Ⅲ 住吉公園をめぐる松林―

昭和12年(1937)7月の盧溝橋事件に始まった日中戦争が長期化するなか、アメリカによる対日封鎖と経済制裁が厳しさを増し、特に昭和15年(1940)9月の屑鉄の全面禁輸によって日本は金属資源の不足に陥りました。そのために、日米開戦を前にした昭和16年(1941)8月に金属類回収令が制定されました。

それは、身近な鍋・釜・鉄扉・鉄柵などの官民所有の鉄や銅をはじめ真鍮・砲金・唐金といった合金を回収し、戦車・軍艦・飛行機・大砲・砲弾などの兵器に利用することが目的でした。当初は一般家庭の金属類の特別回収が行われましたが、昭和17年(1942)には学校や公共施設をはじめ、神社・寺院・教会等にも供出させるための調査が行われ、昭和18年(1943)より主に鉄と銅の回収が進められました。

二宮金次郎の銅像や寺院の梵鐘が供出されたのはよく知られています。特に大阪では、当時世界最大規模を誇った四天王寺の大梵鐘や、当時火災で大破した初代通天閣が解体・供出されたことなどは代表的な例です。

住吉公園では、明治45年(1912)に建立された西村捨三の銅像(写真㋑本紙第三号参照)や、昭和5年(1930)難波駅から住吉公園駅(現・住吉大社駅)前に移設された松本重太郎の銅像(写真㋺本紙第四号参照)が供出されました。

写真㋑ 住吉公園「西村捨三君銅像」
写真㋑ 住吉公園「西村捨三君銅像」
明治45年(1912)

写真㋺ 旧住吉公園駅(現住吉大社駅)前「松本重太郎銅像」
写真㋺ 旧住吉公園駅(現住吉大社駅)前「松本重太郎銅像」
元は大正10年(1921)難波駅前に建立されたもので、昭和5年(1930)難波駅改築にともない住吉公園駅前に移設された。

写真㋩・㋥ 第一本宮青銅狛犬一対 明治29年(1896) 廣海二三郎奉納
写真㋩・㋥ 第一本宮青銅狛犬一対 明治29年(1896) 廣海二三郎奉納

 

当時、官幣大社であった住吉大社も例外ではなく、貴重な銅製燈籠・狛犬・顕彰碑の数々が供出されました。主なものを挙げると次の通りです。

一、第一本宮前の東大寺型の青銅狛犬(明治29年、元北前船主で実業家の廣海二三郎奉納)。写真㋩㋥
二、当時最大規模を誇った大型の青銅狛犬(昭和3年大阪金物商組合奉納。黒岩淡哉の監修、伊藤保齊の鋳造。供出後、石造で復元)。
三、旧神楽殿にあった数々の釣燈籠群(文化4年、天保13年、明治・大正・昭和の各奉納)。写真㋭
四、鴻池善右衛門ほか銀行財界人四十名による分銅型大唐銅燈(明治41年奉納。台座のみ現存)。写真㋬
五、旧阪堺鉄道(南海電鉄の前身)の解散記念奉納による高燈籠型の青銅燈籠(明治31年奉納)。写真㋣
六、大阪靭乾物商による唐銅燈籠(明治27年奉納。供出後の台石は後に現・兎の手水鉢に転用)。写真㋠
七、日露戦争・広瀬武夫中佐の直筆「決死隊」碑(第二次旅順港閉塞船「福井丸」船内遺品。大正2年奉納)。
八、同、広瀬中佐の第一次旅順港閉塞戦「報国丸」の鉄檣(鉄製マスト。昭和9年奉納)。写真㋷
九、陸軍大臣・児玉源太郎の奉納による日露戦争戦利品大砲大小二門(明治34年奉納か)。
十、海運造船業・実業家の尼崎伊三郎による唐銅製「官幣大社住吉神社」社号標柱(明治28年奉納)

そのほかにも顕彰碑、銘板類、神馬銅像、銅水瓶、各種燈籠、覆屋など挙げればきりがありません。

写真㋭ 旧神楽殿釣燈籠群
写真㋭ 旧神楽殿釣燈籠群

写真㋬ 分銅型大唐銅燈 明治41年(1908)、写真㋣ 旧阪堺鉄道解散記念青銅燈籠 明治31年(1898)
右写真㋬ 分銅型大唐銅燈 明治41年(1908)
左写真㋣ 旧阪堺鉄道解散記念青銅燈籠 明治31年(1898)

写真㋠ 大阪靭乾物商 唐銅燈籠 明治27年(1894)
写真㋠ 大阪靭乾物商 唐銅燈籠 明治27年(1894)

写真㋷ 日露戦争・第1次旅順港閉塞戦 広瀬武夫中佐「報国丸」マスト
写真㋷ 日露戦争・第1次旅順港閉塞戦 広瀬武夫中佐「報国丸」マスト

写真㋦ 神馬銅像 大正3年(1914)、写真㋸ 大阪 木津川上荷仲奉納 明治23年(1890)、写真㋾ 陶磁器燈籠覆屋 明治14年(1881)
右写真㋦ 神馬銅像 大正3年(1914)
中写真㋸ 大阪 木津川上荷仲奉納 明治23年(1890)
左写真㋾ 陶磁器燈籠覆屋 明治14年(1881)

 

当時の記録によれば、昭和18年(1943)1月15日に鋼鉄回収奉告祭が執行され、同月20日には回収状況の視察があり、4月7日から21日にかけて回収運搬が実施されています(社務日誌)。

ほかに、旧高燈籠や禁裏御祈禱場(現高燈籠の南側にあった旧跡)の門扉・鉄柵も供出の対象となり、翌年の昭和19年(1944)4月27日に金属回収挺身隊によって供出されました。

これらの回収場所には住吉公園が利用され、近隣の各寺院の梵鐘や各供出品とともに運び込まれていたようです。昭和28年刊『住吉区誌』には当時の公園について「戦時中の鉄類回収は広場への進入となり、その上20年6月の空襲によつて非常に荒廃する事となつた。」とあり、空襲とともに金属類の回収場所となったことで公園が荒廃したと記されています。(小出英詞)

 

住吉公園の原風景を彩る生物たち

―住吉の松Ⅳ 松の受難―

住吉の松は、本紙第13号から第15号で述べたように広大な林(いわゆる松原)を形成していました。このクロマツの樹叢じゅそうは、長い歴史の中で何回もの危機に見舞われてきました。

住吉の松林は、万葉集で「霰松原あられまつばら」と詠われ(写真①)、歌の名所でした。一方、住吉津が国家的な港として発展し、これを鎮護する住吉神社の規模が拡大を続けると、周辺の開発がひき起こされ、宅地の造成や用材としての利用が拡大しました。これが受難のはじまりでした。

写真① 安立南公園の「霰松原」の石碑 現在、この公園にマツは生育していない。、写真② 現在の大社境内の松林の状況
右写真① 安立南公園の「霰松原」の石碑 現在、この公園にマツは生育していない。
左写真② 現在の大社境内の松林の状況

 

次いで、熊野街道と紀州街道が発達し、神社門前の立地とあいまって、都市化の様相を見せ、松原はさらに後退することになっていきます。それでも、近世初頭までは、『住吉潮干図』(本紙第15号)や『住吉名所図会』(図①)に描かれるように、松原が存在していました。その大きな理由として、クロマツは、海浜条件下で優位を保つことができ、日本の海浜部の主要植生であることから、この地域が海浜の状態を保ち続けていたことが分かります。

図① 『住吉名所図会』の「霰松原」
図① 『住吉名所図会』の「霰松原」

 

3回目の環境変化は、宝永元年(1704)に行われた、大和川付替えによるものです。この付替えでできた新大和川は、杉本村付近で上町台地を貫通し、遠里小野村から七道村を抜けて大阪港に開口しました。

この川は、元来川のない地質的に軟弱な農耕地に人工的に築造されたものですから、下方浸食が大きく、大量の土砂を河口に運んだことで、堺港は港湾機能が低下しました。

住吉の浜は、河口の北側に当るため、沿岸流の具合から、南の堺よりは土砂の堆積は少なかったと云われますが、付替えから約百三十年後の天保8年(1837)の天保国絵図の下絵図には、大和橋の下流に新田が形成されています(図②)。さらに、木津川から津守新田へ引かれた十三間堀川が新大和川につながり、剣先船が通い始めると、住吉側の沿岸部も急速に埋立てが進行し、「海浜」としての条件がなくなっていきます。

図② 天保国絵図に関する下絵図(部分)出典:寺田家文書 絵図編
図② 天保国絵図に関する下絵図(部分)出典:寺田家文書 絵図編
天保国絵図製作に当り、摂津国の担当となった高槻藩の命により当家12代寺田孝重によって作られた、大和川部分の図 大和橋より下流に土砂の堆積による新田が両岸に見られ、十三間堀川との合流も描かれている。

 

さらに第4の受難は、大阪の工業都市化にあります。明治18年(1885)の阪堺鉄道開通図(本紙第2号)には、この軌道が神社門前の「松林」を通過していることが描かれていますし、同30年(1903)の『住吉神社及公園之真景』(本紙第8号)には、阪堺鉄道、高野鉄道に加えて、紡績所工場を建設しています(図③)。

図③ 明治36年「住吉神社及公園之真景」(部分拡大)
図③ 明治36年「住吉神社及公園之真景」(部分拡大)

 

大阪は、その後も「東洋のマンチェスター」を標榜して工業化を進めました。大正11年(1932)に開校した、大阪府立第十五中学校(現在の大阪府立住吉高等学校)の校歌では「煤煙けむりの巷遠くして、茅淳の浜松風清し…」と歌われ、昭和4年(1929)に設立された筆者の母校である長池小学校の校歌にも「空おおうけむりにとおく…」とあり、校章には松葉がデザインされていて、住吉の松に工業化の波が寄せていることが窺えます。

この煤煙が、住吉の松の衰退に拍車をかけたことは間違いなく、大正5年(1916)5月の大阪朝日新聞には、「枯れてゆく住吉の松、なんと療治の仕様がない」と記述されており(図④)、住吉の松のシンボルであった「なにわ屋の笠松」が昭和23年(1948)に枯死しました。それでも、現在大社の境内や住吉公園ではクロマツの大木が頑張り続けてくれており(写真②)、将来に渡って守り続けねばなりません。(寺田孝重)

図④ 1916年5月18日 大阪朝日新聞 朝刊7P「枯れてゆく住吉の松」
図④ 1916年5月18日 大阪朝日新聞 朝刊7P「枯れてゆく住吉の松」

 

高度経済成長期の児童遊戯場

昭和三十四年の児童遊戯場

図1 昭和34年(1959) 住吉公園平面図(一部)
図1 昭和34年(1959) 住吉公園平面図(一部)

 

図1は昭和34年(1959)の平面図です。

前号に掲載した昭和27年頃の平面図と比べると、大きな変化としてはメリーパークが無くなり、代わりにローラースケート場が設置されています。これに伴い遊戯場の区域が北側に拡大したことで、ほぼ現在の形状になりました。また、1号池が無くなり、沈床花壇に変わっています。

メリーパークがなくなった原因として、有料施設が減少したことが考えられます。昭和23年(1948)9月1日付け大阪府公報第二号外に記載されている有料施設は子供用ハンドジープ、子供用三輪車、子供用電気自動車、子供用自轉車、子供用ボート、子供用二輪車ですが、住吉区誌がまとめられた昭和28年(1953)6月時点では、有料施設として電気自動車2、三輪車20、自転車4、ボート11になっており、子供用ハンドジープ、子供用二輪車がなくなっています。当初の数は不明ですが、有料施設のメンテナンスにも限界があり、数は減少していったものと考えられます。このことがメリーパークの廃止につながっていったものと思われます。

昭和32年(1957)10月11日の大阪府条例第30号大阪府都市公園条例の別表1によると、住吉公園における公園施設は野球場、庭球場、運動場の3施設になり、メリーパークの有料施設は掲載されていません。このことから、この時点でメリーパークが無くなったことがわかります。

その後の昭和34年(1959)の平面図から読み取れる遊具は、ブランコ8、ジャングルジム3、木馬10、鉄棒2、スベリ台2、シーソー2、縄梯子2、ローラースケート場1、オーシャンウェーブ1、子供の家3、土山3です。国道26号に隔てられた飛び地ではブランコ2、スベリ台1、砂場1があり、住吉公園が子供の楽園と呼ばれるにふさわしい施設内容といえます。

ローラースケート場の新設

昭和34年(1959)の遊戯場ではローラースケート場が目につきます。ローラースケートは昭和20年代後半から流行しはじめ、28年に全国ローラースケート競技会や第一回全日本スピード・フィギュア選手権大会がそれぞれ岐阜県大垣市で開催され、全国的に広がりました。道ばたがローラースケート場となり、子供たちの路上での遊びが多くみられました。

しかし、30年代になると高度経済成長の進展に伴い、自動車交通が急激に伸びていきます。自動車の増加は交通事故増加につながり、社会問題になりました。このころから盛んに横断歩道の設置や、子供を対象とした交通安全教室などが行われるようになり、昭和35年(1960)に道路交通法が制定されると、昔から子供の遊び場であった道路から子供が排除されることになります。このため次第に公園内に遊び場を求めいきました。住吉公園のローラースケート場もこのような背景で設置されたと考えられます。(荒木美喜男)

写真①
写真① 手前にシーソーで遊ぶ子供たちと左手奥にローラースケート場が見えます。

写真②
写真② 日陰棚の下に木馬が設置されていて、子供たちの遊ぶ様子がわかります。

写真③
写真③ 日陰棚を通り過ぎると子供の家があります。その右側に見えるのが木馬のある日陰棚です。

写真④
写真④ 手前がオーシャンウェーブ、その後ろ左手に鉄棒、中央には便所、右手に滑り台(3方向のすべり面)が見えます。

 

 

「住吉公園歴史探訪 編集者が魅力を語る公開フォーラム」を開催しました。

「住吉公園歴史探訪 編集者が魅力を語る公開フォーラム」を開催

81名の方々にご参加いただき、成功裡に終えたことをご報告申し上げます。ご来場いただいた皆さま、ありがとうございました。

フォーラム内容

  • 『編集会議再現』編集代表 大阪公立大学 水内俊雄
  • 『住吉公園誕生』(一財)苅田土地改良記念コミュニティ振興財団 寺田孝重
  • 『住吉大社と住吉公園』住吉大社 小出英詞
  • 『住吉公園、大阪府の公園になる』大阪府庁公園OB 荒木美喜男
  • 『公園と都市計画』NPO法人国際造園研究センター 繁村誠人
  • 『古写真とアーカイブ/住吉の歴史地理』NPO法人remo記録と表現とメディアのための組織 櫻田和也

開催日時:2022年7月22日(金)13時00分~
開催場所:住吉大社 吉祥殿
主催:都市公園住吉公園指定管理共同体
共催:住吉大社
後援:大阪府・大阪市教育委員会・堺市・住之江区・住吉区・西成区
協力:大阪公立大学地域連携センター、都市公園住之江公園指定管理共同体、都市公園長野公園管理共同体

 

発行:

都市公園住吉公園指定管理共同体
(株式会社美交工業・NPO法人釜ヶ崎支援機構)

お問い合わせ:

住吉公園管理事務所 電話 06-6671-2292

編集委員:

水内俊雄(代表、大阪市立大学)、小出英詞(住吉大社)
寺田孝重(苅田土地改良記念コミュニティ振興財団)
繁村誠人(NPO法人 国際造園研究センター)
櫻田和也(NPO法人 remo記録と表現とメディアのための組織)
荒木美喜男(大阪府庁公園OB)