文字サイズ

背景色

大阪府営5公園:久宝寺緑地 住之江 住吉 長野 石川河川公園の情報サイト


住吉公園

 2021年4月20日(火) 13:28 JST

「住吉公園歴史探訪」第10号

  • 2021年3月 2日(火) 14:00 JST

住吉公園150年記念事業
「住吉公園歴史探訪」第10号
歴史探訪 第10号
発行日:2021年3月1日
(季刊:3月・6月・9月・12月発行)

明治6年に開設された大阪府営住吉公園は、2023年に開設150年を迎えます。「住吉公園 歴史探訪」では、住吉公園150年記念事業として住吉公園の歴史をたどり、開設当初からどのように利用され、どのような変遷を遂げてきたか、悠久の歴史に想いを馳せてみたいと思います。

大正十五年『堺住吉(附近)名勝案内』

住吉公園を含む住吉・堺・浜寺と周辺の名勝を紹介した観光案内の印刷物をご紹介します。大正15年(1926)8月28日、日本名勝案内社による発行(定価十五銭)でした。

大正後期から昭和初期にかけての大大阪時代における住吉・堺の参詣・遊覧案内の決定版であり、住吉公園がその一角を占めていたことを確認できる資料です。

表紙 折り返しの表紙と裏表紙は、いわゆる住吉模様(住吉の海浜を描いた古典的な白砂青松の景観)で、松原の海浜、沖に帆掛け船、頭上に三日月を仰いだ趣のある構図です。それを背景に表題「堺住吉(附近)名勝案内」が掲げられ、「住吉大社反橋」と「住吉高燈籠」の写真二点を配置。さらに、藤原為長(紫式部の伯父)の和歌「松見ればたちうきものを住江のいかなる波かしづ心なき」が添えられています(図①)。

表紙面 住吉大社から堺市街をへて大鳥神社までの名勝20項目の説明文と、写真28点を並べて掲載しています。

住吉とその周辺の写真では、住吉大社、奥天神(生根神社)、住吉公園、安立町笠松、阿部野神社、北畠顕家墓所、玉出生根神社の計14点があり、全写真の半分に及んでいます。

ちなみに、本資料では「住吉大社」の表記を使用していることにも注目してください。当時の正式呼称は「官幣大社住吉神社」でしたが、大正期すでに一般には住吉大社と呼ばれていたことが分かります(官幣大社住吉神社は、昭和21年2月2日に国家管理を離れ、宗教法人令により同年6月20日「住吉大社」に改称)。

次に、住吉公園と高燈籠の説明文を抜粋します(原文に句読点を付す)。

住吉公園 南海本線住吉公園前より西方一帯の地は、老松稚松枝を交へ、林間旅舘旗亭の転在する広袤(※)参萬六千六百四十余坪の地あり。古来は馬場の松原と謂ひ、住吉神社の社域なりしも、明治初年上地せられ、明治六年初めて公園地と定められたる以来、施設年と共に備はり、今や大阪市内に於ける最も閑雅の地として、春夏秋冬共に万民共楽の散策地となれり。園内松樹多く、池あり、丘あり、亭あり、運動場の設備又完きものあり。春秋の好時期此処に来り遊ぶ者実に多し。

高燈籠 公園の西方に有名なる高燈籠あり。此辺出見の浜と称し、海浜なりしを以て、航海者の安全を計らんが為め建てられたるものゝ如し。創建の年月不詳なり。先年、皇后陛下住吉神社御親拝の砌御登覧遊ばされ、四方の風光を愛でさせられたり。
※広袤(こうぼう)…長さと幅、面積

写真で住吉公園の西口にあった「石ノ大鳥居」につづき、「公園ノ一部」「公園藤ノ花」となります(いずれの名称にも「住吉名勝」を冠する)。写真「公園ノ一部」は、本誌第七号の四面にも取り上げた絵葉書と同じものです。また「公園藤ノ花」も手彩色絵葉書となった写真です(図②)。

なお、紙面は、表紙面を横長にして上下を山折りに、さらに蛇腹折りにして表紙に折り込んだもので、手元にとって両面の説明文が読めるように工夫してあります。

裏紙面① 裏紙面は全面横長の紙面に、案内地図を中央に、説明と写真を上下に、奥付を左下に配置し、折り返しを開いて全面を眺めるように印刷されています。

案内地図は南海鉄道の路線を主軸にして、北は新世界・天王寺公園から南は浜寺までの領域に、沿線の主要な地点を赤丸で示しています。また、地図は主に黄色塗りですが、その中に緑色で表す場所があります。

その緑色を挙げると、天王寺公園、聖天山から帝塚山をへて住吉大社・住吉公園にかけての一帯、旧堺市街、浜寺の松林一帯です。これは後に旧都市計画法により指定された風致地区の範囲と一致しており、昭和7年に堺と浜寺、昭和8年に茶臼山(天王寺)と聖天山(北畠・帝塚山)が順次指定されています。よってこの図により、住吉大社・住吉公園の一帯は、後の聖天山風致地区と一体的な風致を備えた場所と認識されていたことがうかがえます。

説明文は、「堺市附近の帝陵」から始まり、13項目の説明文と写真17点を載せ、中でも「浜寺と堺大浜に於ける割烹旅館案内」を最も大きく扱い、大料亭「一力楼」以下、料理屋や土産物屋、そのほか周辺の施設を順に紹介しています。

最後の下段左側には、南海本線と高野線における運賃・時間・行程(距離はマイル表記)を掲げ、同鉄道の概要と遊覧情報で締めくくられています。

裏紙面② 紙幅の都合上、住吉に関するものをご紹介します。まずは「住吉のお土産物は」と題して、堺打刃物類の菊一文字本店(正面鳥居前)、同じく源利平本店(住吉北門前)、現在も営業をつづける住の江味噌の池田屋本店(東鳥居前)、さらに同支店(正面鳥居前)といった店舗が挙げられます。

(図①)堺住吉(附近)名勝案内 表紙部分
(図①)堺住吉(附近)名勝案内 表紙部分

(図②)絵葉書「住吉名所 公園の藤花」
(図②)絵葉書「住吉名所 公園の藤花」

同じく住吉大社の正面鳥居前には、まねきや・はったつや・伊賀菊・ウヱト・鳥居前売店・停留場売店といった主な店舗があり、商品の名物芋・はまぐり・住吉踊人形・いも菓子・住吉だんご・絵はがき・名勝案内が販売されていました。

また、神社と公園付近にある旅館や料理店として、伊賀治・千鳥・魚治・久の家・おもと茶屋・岸の館・小山楼(本紙第九号一面参照)が挙げられます。さらに、住吉大社南の日東レコード(ツバメ印の国産レコード会社)の傍らにある辰巳家・岡春の名も見え、公園の北西にあった住の江温泉にも触れられています。

そのほかに、堺大浜飛行場(国内初の民間水上飛行場)、住吉菖蒲園(髙燈籠の南西にあった民営公園)、帝塚山共楽園(万代池にあった遊園地)といった紹介記事も見られます。(小出英詞)

資料協力:櫻井康弘氏、堺市立中央図書館

堺住吉(附近)名勝案内 表紙面
堺住吉(附近)名勝案内 表紙面 堺市立中央図書館 所蔵

堺住吉(附近)名勝案内 裏紙面
堺住吉(附近)名勝案内 裏紙面 堺市立中央図書館 所蔵

 

堺住吉(附近)名勝案内(表紙面) 掲載写真タイトルリスト

官幣大社大鳥神社(本殿・玉垣正面)、堺名勝(大浜商品陳列所・菅原神社楼門・開口神社・方違神社・南宗寺山門・南宗寺千之利休茶室・妙国寺蘇鉄・土藩殉難十一士墓所・大浜海岸燈台・大浜水族舘)、浜寺名勝(園内泉水ト休憩所・羽衣松)、住吉大社(第一本宮・第一本宮・第三第四本宮・神館・御座所)、住吉神社(第二本宮)、住吉名勝(奥ノ天神・石ノ大鳥居・公園藤ノ花・笠松)、住吉公園(公園ノ一部)、北畠顕家公御墓所、玉出(生根神社)、阿部野神社(表参道・拝殿)

堺住吉(附近)名勝案内(裏紙面)掲載写真タイトルリスト

官幣大社大鳥神社(大鳥居)、履中天皇(中百舌鳥原南御陵)、浜寺公園(園内休憩所・海水浴場)、大浜飛行場、仁徳天皇(百舌鳥耳原中御陵)、堺名勝(大浜公会堂・大浜桟橋・大浜潮湯)、反正天皇(百舌鳥耳原北御陵)、吾彦観音(本堂)、住吉大社(大鳥居)、住吉名勝(菖蒲園)、天下茶屋(聖天山全景)、帝塚山(共楽園)、南海鉄道、通天閣

 

南海鉄道沿線名勝案内図(拡大)

南海鉄道沿線名勝案内図(拡大)

海岸線を走る新阪堺電車の開業前ですが、住吉、堺・大浜、そして浜寺という、大阪のみならず日本を代表する歴史旧跡と海浜の娯楽ゾーンを描写した秀逸な鉄道沿線案内図といえます。

 

住吉公園の原風景を彩る生物たち

―「御田」のセリ―

湿田や水辺にセリが生えているのは一般的な日本の原風景でしたが、近年の大阪市内ではあまり見られなくなりました。(写真①)セリは春の七草の歌の冒頭を務める植物です。言葉の響きやリズムもあるでしょうが、『覚える重要度』も冒頭に選ばれた理由であるように思います。

すこし郊外の大泉緑地付近などでは、まだまだ見られる植物です。というのも、今でも緑地近辺にはセリが自生しており、これを見つけた人から食べてよいかとの問い合わせがあるのです。私が見たところ多くの場合が「セリ」なので食べても構わないのですが、普段は「食用しないように」と答えています。よく間違われるものに「ドクゼリ」の存在があるからです。

セリは今でこそスーパーでも買えますが、野外で採取するとなると注意が必要です。水辺にはセリ以外にも、よく似て有毒な「ドクゼリ」に加え、有毒種の多いキンポウゲ科植物(ウマノアシガタ、キツネノボタン、タガラシなど)も一緒に生息しているのです。セリから始まる春の七草の歌は『若菜摘みの第一歩はセリを間違いなく選別することにある』ということも教えてくれているのではないでしょうか。(写真②)

写真① セリの若菜写真② 市販のセリ
写真① セリの若菜/写真② 市販のセリ

近頃でもニラとスイセンの葉を間違えた食中毒事件などは耳にしますが、食べられるか、食べられないかの判断はいつの時代でも大変重要です。まして民族として慢性的に冬の終わりの食糧難を乗り越えてきた日本人において、この判断は教育の最も大切な事柄の一つであったと思われます。セリ科の植物にはセリの他にもニンジン・セロリ・ミツバなどの野菜やミシマサイコ・トウキ・ウイキョウといった薬草も含まれ、人類にとって魅力的な植物群です。「見た目」や「生息地」の似た有毒な植物の存在は人々を悩ませ、見分ける知識を発展させました。セリとドクゼリは若菜の時期は見た目も生育地もよく似ており大変まぎらわしいのですが、食用の適期を越えた頃にはドクゼリ(別名オオゼリ)が大きく育ってくるため見分けが付きやすくなります。(写真③)

写真③ 花をつけたドクゼリ 大阪市立自然史博物館 長谷川匡弘氏提供
写真③ 花をつけたドクゼリ
大阪市立自然史博物館 長谷川匡弘氏提供

かつての御田の様子を本誌第八号掲載の絵図から見てみますと、絵のデフォルメもあるでしょうが、現代より細江川に近接した位置に田圃が連続して見られ、セリ・ドクゼリの好む水辺の環境があったと考えられます。(写真④)

写真④ 住吉神社及公園之真景の拡大
写真④ 住吉神社及公園之真景の拡大

平成25年(2013)の御田の植物調査では、セリとタガラシが確認され、ドクゼリやキツネノボタンは確認されませんでした。食べられる種類中心に保たれた植物相に歴史的経緯を感じさせられます。

余談になりますが、近年切り花としてよく見られるホワイトレースフラワーは花の外見が似ていることから、和名でドクゼリモドキと言うそうです。知ったときは大変驚きましたが、こちらは毒性がないと聞き安心した経験があります。(寺田孝重)

 

旧国道16号線開通前後の住吉公園の変遷

住吉公園は昭和初期に国道16号(現在の国道26号)の整備で分断・縮小され、改変を余儀なくされました。今回は公園区域における道路整備の時期と公園の改修時期の変遷を見ていきます。

公園を大きく変えた国道16号の整備ですが、大阪市区改正設計による都市計画事業(注1)と、大阪府知事執行の都市計画事業(大正15年内閣認可を受けた旧十大放射路線)による2つの事業が関係しています。大阪市区改正設計による事業は「1等大路第3類第10号線(難波住吉線)で、廣路第一號線終點(御堂筋)より(中略)住吉公園」に至る路線で、住吉区誌によりますと大阪府事業は住吉公園から北島町(大和川)の区域になります。難波住吉線は昭和十年に完成、大阪府事業の国道16号は同13年に完成したとなっています。(注2)

また、この縮小の補償として住之江公園が整備されることになるのですが、住吉公園と住之江公園は一体のものであるとして、それぞれの公園を結ぶ連絡道路が計画され、それに伴い住吉公園内に車道ができることになります。

ここでは道路事業の実施時期と公園施設の改修時期、そして公園施設の何が変わったのかについて見ていくことにします。

1 道路事業と公園施設改修時期

国道16号で影響を受ける範囲は、北西の築山、四号池、銅像と花壇、西運動場、住吉神社御旅所があります。これらの改修時期を4つの資料を基に推測していくことにします。

⑴大阪府の公報

住吉公園のテニスコートが有料施設として初めて公報に記載されるのが昭和9年12月3日の「大阪府公園施設使用條例中改正條例」です。昭和15年7月22日の「大阪府公園特殊施設使用條例中改正條例」では、西グラウンドの新たな整備にともない、住吉公園のグラウンドが1箇所から2箇所に変わり、東、西の区別がつけられたことが記載されています。このことから昭和9年テニスコートが、昭和15年に西グラウンドが完成したことがわかります。

住吉公園では大正7年からの大改修で東西運動場が整備され、テニスコートの整備も行われましたが、当時は有料公園施設の取り扱いがなく、条例には記載されていませんでした。有料公園施設が条例に出てくるのは、大正14年の箕面公園有料休憩所が最初であり、運動施設では昭和5年の住之江公園からです。

⑵住吉公園の工事記録(大正9年から昭和5年)

工事記録の頭書きには「尚昭和七年ニ於テハ中央遊歩道ノ外、園ノ北部ニ車道ヲ新設シテ之ヲ住江公園道路ト連絡セシメ自動車ニヨリテ住吉、住江両公園ノ交通ヲ便ニスルト共ニ本公園遊覧者ノ混雑ヲ防止スルノ計畫ヲ樹テタリ」とあり、7年には住吉公園内において、連絡道路に接続する車道の計画図が示されたことがわかります。

⑶昭和6年頃の住吉公園・住之江公園連絡道路計画図

この計画図には鉛筆書きで「昭和6年」との記載があります。計画図には国道16号が示されていないことから、少なくともこれらの道路が住吉公園区域では完成していないと思われます。

もう一つ考えておかなければならないのが住之江公園の完成です。住之江公園は住吉公園の縮小に伴う代替公園として計画・整備されました。したがって、住之江公園の完成を待たずに住吉公園の縮小、施設の使用停止は考えにくいのです。これらのことを考え合わせると、住之江公園完成の昭和5年10月以前に公園区域の国道16号の工事が行われることはなかったと思われます。

⑷住吉神社の資料

「昭和11年(1936)7月10日、公園内に国道16号線(現・国道26号線)開通による公園敷地模様替えのため、住吉公園御旅所・神輿台、旧来の場所より北東約三間へ移転」との記載があります。この文書は住吉公園内の御旅所について書かれたものであり、国道16号の整備に先立ち、昭和11年に御旅所の移転を行ったことを示しています。このことから、大阪府事業の公園区域内での整備着手は昭和11年7月10日以降であることがわかります。

上記内容と公園改修工事、道路工事の関係を示したのが左下の「道路工事関連表」です。

2 無くなった施設、新たにできた施設からの考察

改修計画の考え方を大正九年の平面図と昭和15年の平面図を比較することで明らかにしていきます。

⑴国道16号で無くなる施設
ア 潮掛道北側
四号池、北西の芝山、西村捨三銅像前花壇、潮掛道沿い花壇の一部
イ 潮掛道南側
西運動場、園芸圃場、(住吉神社御旅所)

 

⑵新たにできた施設

昭和15年の図面を見ると、国道16号の北西側に藤棚と花壇があり、その南には住吉神社の御旅所が作られています。国道の東側・潮掛道の北側には壁泉ができ、児童遊戯場が東側に移動し、園路を挟んでその東には相撲場が新たに設置されています。車道が国道16号から住吉公園駅まで設置され、1号池が整形に作り変えられたことがわかります。潮掛道の南側ではテニスコートが改修され、その南には西グラウンド、南西に新しく花壇が設置されています。圃場は西から東へと、南海鉄道線路沿いに新たに設置されています。

このような公園改修が行われ、現代の公園の原形がこの時期にでき上りましたが、代替措置として住之江公園を整備し、そこに運動場を設置したにもかかわらず、住吉公園に2つめとなる西グラウンドを作った意図が不明です。改修計画には当時の主任技師である大屋霊城氏が当然携わっていたと思われますが、昭和9年に亡くなられ、施設改修についての設計趣旨が伝わっていないことが非常に残念です。(荒木美喜男)

  • 注1 第一次大阪都市計畫事業誌 P116・117 P138
  • 注2 住吉区誌 P235・236

 

大正9年度からの平面図
大正9年度からの平面図

大正9年と昭和15年の公園図面
大正9年と昭和15年の公園図面
国道16号と南海鉄道により住吉公園は3分割にされます。昭和15年の図面では公園施設の再整備と、民家の集中している区域を公園から削除した様子がわかります。

道路工事関連表
道路工事関連表

車道計画図
車道計画図
「住吉公園と住江公園とを結ぶ連絡道路」計画図にある住吉公園の図面では車道と園路の区別が不明なため、車道部分を着色しました。

 

発行:

都市公園住吉公園指定管理共同体
(株式会社美交工業・NPO法人釜ヶ崎支援機構)

お問い合わせ:

住吉公園管理事務所 電話 06-6671-2292

編集委員:

水内俊雄(代表、大阪市立大学)、小出英詞(住吉大社)
寺田孝重(苅田土地改良記念コミュニティ振興財団)
繁村誠人(NPO法人 国際造園研究センター)
櫻田和也(NPO法人 remo記録と表現とメディアのための組織)
荒木美喜男(大阪府庁公園OB)