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住吉公園

 2021年9月17日(金) 01:42 JST

「住吉公園歴史探訪」第12号

  • 2021年9月 7日(火) 10:58 JST

住吉公園150年記念事業
「住吉公園歴史探訪」第12号
歴史探訪 第12号
発行日:2021年9月1日
(季刊:3月・6月・9月・12月発行)

明治6年に開設された大阪府営住吉公園は、2023年に開設150年を迎えます。「住吉公園 歴史探訪」では、住吉公園150年記念事業として住吉公園の歴史をたどり、開設当初からどのように利用され、どのような変遷を遂げてきたか、悠久の歴史に想いを馳せてみたいと思います。

住吉公園と周辺の自然災害

住吉と風水害

住吉公園開設の五年前、公園の敷地を含む住吉社頭の松原一帯は大洪水に見舞われました。時は、慶応4年5月13日(西暦1868年7月2日)のことでした(以降の日付は明治5年以前まで旧暦表記)。

ちなみに、同年9月8日、「明治改元の詔」が発せられ、正月元旦までさかのぼって明治元年となりました。よって、慶応4年5月13日は明治元年5月13日になります。

この水害は、俗に「慶応4年の洪水」あるいは「明治元年の洪水」とも呼ばれ、南坡艸人著『洪水図説』(慶応4年序)にその有様が詳しく記されています。

同年の5月、10日頃から強い雨が降り、畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)の川々は増水してゆきました。11日には淀川水系の橋が数々流され、中之島・堂島などの路面が冠水し、木津・難波は一面が海面のようになり、ついには13日に大和川が決壊しました。この時、紀州街道に架かる大和橋の上流25丁(約2.7km)の右岸、遠里小野の堤において幅一五八間(約287m)が崩壊し、その濁流が流入して、遠里小野から安立町(現・住之江区安立付近)をへて、住吉大社の旧境内西域(現・住吉公園を含む松原一帯)、住吉新家(現・住吉区東粉浜付近)まで到達しました。さらに、大和川とつながる十三間堀川もあふれて、開発地であった駒井新田・加賀屋新田(現・住之江区の平林地区以東の大部分)は跡形もなくなり、あたりは海面と一体になったとあります(図②上)。

その挿図には、住吉大社の反橋から鳥居にかけての参道は水で覆われ、社前の松原(後の住吉公園)を含んだ西側が水没し、海面まで冠水した中を小舟が行き来し、高燈籠が水面に顔を出している様子などが描かれています(図②下)。

なお、被災地へは堺などから助け船が出され、住民600人ほどが救助されましたが、行方不明者は700人余を数えたとのことです。

追い打ちをかけるように、18日、19日、20日と大雨がつづき、20日の夜には再び遠里小野堤が決壊、またもや安立町や住吉新家へと濁流が押し寄せました。その後、各地で施行(救助活動)があり、当地には土佐藩屋敷から飯・味噌の配給があり、のちには飯と銭が支給され、大坂の町衆からの救援物資が続々と届けられたそうです。

7月頃には遠里小野堤の大半が改修されましたが、さらに不幸がつづきます。同月15日から雨が降りはじめ、大した大雨ではなかったものの、17日には堤が崩壊し、安立町をはじめとする被災地へ三度目の濁流が襲来しました。

被災地は翌年の年貢が免除され、住民も復興に尽力しましたが、さらに翌々年の明治3年(1871)9月、またしても豪雨がつづき、同じ遠里小野堤の幅130間(約236m)が崩壊して洪水となったため、本格的な復興にはさらなる年月を要したようです。

(図①)大阪摂河大洪水図(明治18年7月10日 野口清兵衛 発行)大阪歴史博物館所蔵
(図①)大阪摂河大洪水図(明治18年7月10日 野口清兵衛 発行)大阪歴史博物館所蔵

(図②)洪水図説 慶応4(1868)序 南坡艸人撰・歌川国員画 早稲田大学図書館蔵

(図②)洪水図説 慶応4(1868)序 南坡艸人撰・歌川国員画 早稲田大学図書館蔵

(図②)洪水図説 慶応4(1868)序 南坡艸人撰・歌川国員画 早稲田大学図書館蔵

また、大阪市街における最大の水害は、明治18年(1885)の淀川大洪水でした(図①)。6月の長雨に加えて豪雨が重なり、淀川流域と支流域の各地で堤が決壊し、河内平野から大阪市街までの広範囲にわたる大洪水となりました。次いで7月には台風の影響により豪雨がつづき、再び広域で洪水が繰り返されました。

同じ時期の6月30日には、やはり大和川も増水して大和橋が流失し、ついに決壊しました。しかし、事前に住民は避難していたことから、人的被害は少なく済みました。同時に十三間堀川も溢れましたが、堤防の被害はそれほどでもなかったようです。

この時の住吉公園の被害状況は詳しく伝えられていませんが、相当の被害があったと思われます。なぜならば、翌年の明治19年(1886)3月以降に、公園で大規模な植栽がなされたからです。住吉大社の当時の記録によれば、大阪府勧業課の指示により、公園の植栽用として海岸松の苗木200本が、神社境内を置場として運び込まれています。じつに明治7年の砂持勧進(篤信家が土砂を持ち寄った土地改良)以来の植栽整備にあたります。

植栽に関連して、明治後期には文人の生田南水(1860~1934)による松苗勧進があり、明治42年(1909)4月17日に松苗祭を再興しており、前後には住吉大社境内や住吉公園において松苗2000本分の勧進があったようです(生田花朝女撰「生田南水句碑」)。

その後、明治から大正へと数々の風水害がありましたが、突出した自然災害は、昭和9年(1934)9月21日に襲来した室戸台風で、関西全域が大変な風水害に見舞われました。住吉大社の社務日誌によると、四本宮をはじめ、摂末社などの諸殿舎が破損し、絵馬殿・五月殿が倒壊するなどの神社の被害に加えて、住吉公園一帯が泥沼と化し、膝上まで水没するほどで、十三間堀川より西側は三尺(約90cm)も浸水、そこかしこに流木が浮き沈みする様子であったと記録されています。周辺地域の被害も相当なものであったと想像されます。

住吉出身の作家・石浜恒夫(1923~2004)は、随筆『大阪詩情―住吉日記・ミナミ―わが街』にて室戸台風の体験を述懐しています。それによると、当時の石浜は、帝塚山学院小学部(現・帝塚山学院小学校)に登校のため、暴風雨のなか、チンチン電車の停留所へ向かったが、いつまでも発車しないため、登校をあきらめて帰路を急ぎ、神社境内を横切った。その際に強烈な突風が起こり、御田の前に建つ五月殿が、目の前で倒壊した。その様子を「ふわりと宙に浮いたかと見るまに、そのまま、列柱が横倒れ崩壊して、ぺしゃったのだ」と表現しています(図④)。

戦後で最も被害があったのは、昭和25年(1950)9月3日のジェーン台風、昭和36年(1961)9月16日の第二室戸台風といった2大台風の襲来でした。

前者では高潮も相まって、大阪市域の約二割に浸水被害が出る状況でした。住吉大社では諸建物・燈籠・塀などが破損、樹木150本が倒壊、高燈籠は板壁が剥落し、北側へ傾斜するほどの被害を受けました。

また、高潮の影響で細江川が氾濫し、住吉大社境内西部から長峡町・住吉公園にかけて床上浸水が発生しました。

後者は室戸台風の再来といわれ、雨量よりも強風・暴風による被害が顕著で、神社や公園の樹木が数百本も倒れ、周辺の家屋の損壊も多数発生しました。

近年では平成30年(2018)9月4日、関西に襲来した台風21号は被害も甚大で、往時の室戸台風を彷彿とさせるものでした。住吉公園では多数の倒木や枝折れなどが発生し、危険箇所も多いため園内すべてを立入禁止に、一時は施設の利用も停止を余儀なくされました。結局、復旧作業には半年ほどかかり、園内の全開放は翌年3月9日になりました。

同じく住吉大社でも、国宝の第四本宮以下、重要文化財八棟、登録文化財七棟ほか、建造物12棟が損壊し、境内のマツやクスなど150本あまりが倒れ、その後、危険木も多数伐採されるなど、大きな被害を受けました。

住吉と地震

江戸後期には日本各地で大地震が多発しました。特に、嘉永7年(1854)11月4日朝方に江戸を中心として安政東海地震が、翌5日夕方にも安政南海地震があり、いずれも推定マグニチュード8.4級の巨大地震で、被害は関東から九州までの広範囲に及びました。大坂・堺でも家屋の倒壊や火災が発生し、さらに大坂・堺の沿岸には、約2.5mの津波が襲来して被害が拡大しました。住吉大社では、神社の燈籠や一部の社殿に損壊があったものの、四本宮はじめ大半の建造物は無事で、近辺は比較的地震の被害が軽微であったようです(大日本地震史料・安政年表)。

(図③)大地震大津浪末代噺乃種(三編全)嘉永7(1854)頃 3編17頁「住吉太神宮奇妙記」早稲田大学図書館蔵
(図③)大地震大津浪末代噺乃種(三編全)嘉永7(1854)頃 3編17頁
「住吉太神宮奇妙記」早稲田大学図書館蔵

当時の刷物「住吉太神宮奇妙記」には次のような興味深い記事が見られます(図③)。大地震の後、5日夜に海上が鳴動して津波が起こり、大坂木津川や堺・尼崎などを荒らしたが、住吉の浜辺は津波の害がなかった。津波が到来する直前、住吉大社の本殿の扉が大音響とともに開いたところ、打ち寄せる津波が、たちまち浜辺を避けて静かになった。さらに不思議なことには、住吉大社の神馬が海藻をかぶっていたという。神徳がいちじるしいので、その後はひっきりなしに参拝があったとのこと。

単なる瓦版として読み過ごすのではなく、当時の様子を物語った内容にも注意したいところです。つまり、当時の住吉の海浜を避けるように津波が分かれ、当地への襲来がなく、近隣への被害も少なかったことを伝えています。

明治・大正期を通じて、住吉近辺では大きな地震はありませんでしたが、戦時中の昭和19年(1944)12月7日、熊野灘を震源とする大きな地震がありました。いわゆる昭和東南海地震ですが、この時、住吉公園にそびえていた石の大鳥居が倒壊しました。

この大鳥居は、明治36年(1903)、西村捨三らが大阪築港事業の成就祈願のため、同事業で採石した犬島産の石材を用いて建立したもので、角柱を特長にもつ伝統的な住吉鳥居の形式の大鳥居でした。かつては国内最大規模を誇り、住吉公園の象徴的構造物として親しまれていましたが、さしもの大鳥居も、約7分間の震動には耐え切れず、大扁額(久邇宮邦彦王染筆)とともにあえなく倒壊したのでした。当時は、戦時下の統制もあって、あまり報道されなかったようです。

戦後すぐの昭和21年(1946)12月21日にも再度の地震(昭和南海地震)がありましたが、付近の被害は軽微でした。その後しばらく大きな地震は見られませんでしたが、平成7年の阪神淡路大震災では、神社の石燈籠二基が倒壊、二基が破損、建物数棟に亀裂が入るなどの被害がありました。

以上、近現代の災害を振り返ってみました。近年の相次ぐ集中豪雨、気候変動による大雨、大型化傾向にある台風に対して警戒を怠らず、来る南海トラフによる巨大地震に向けても皆で防災意識を高めてゆきたいものです。(小出英詞)

主な参考文献
『地震津浪末代噺乃種』
南坡艸人『洪水図説』1868
大阪府東成郡『東成郡誌』1922
住吉大社奉賛会『住吉大社史・下巻』1983
大阪都市協会『住吉区史』1996
大阪市史編纂所『大阪市の歴史』1999

昭和9年(1934)9月21日 室戸台風 本殿桧皮葺が吹き剥がされ、瑞籬の塀は薙ぎ倒され、折枝による建物の損壊、倒木により石燈籠が破壊された様子(ガラス乾板)
昭和9年(1934)9月21日 室戸台風 本殿桧皮葺が吹き剥がされ、瑞籬の塀は薙ぎ倒され、折枝による建物の損壊、倒木により石燈籠が破壊された様子(ガラス乾板)

(図④)室戸台風で倒壊した五月殿(ガラス乾板)
(図④)室戸台風で倒壊した五月殿(ガラス乾板)

平成30年(2018)9月、関西に上陸した台風21号による被害:住吉公園
平成30年(2018)9月、関西に上陸した台風21号により、大阪府内は甚大な被害を受け、住吉大社、住吉公園も例外ではありませんでした。汐掛道沿いの高さ18m目通り3mのセンダンは、南北に数回大きく揺れた後、北向きに根返りをして倒れたため、主要園路である汐掛道は難を逃れました。台風が過ぎ去ったあとの園内は、各所で倒木や無数の枝折れが発生し、施設の損壊をはじめ、至るところでジャングルのような箇所が点在し、管理事務所南側や細井川沿いの園路は完全に寸断されました。これにより、倒木または危険木として伐採されたものを含めると、169本の樹木が被害を受けました。

 

住吉公園の原風景を彩る生物たち

―「御田」の植物リストから欠落したスベリヒユとヒガンバナ―

「御田」の植物調査リストを見ていて不思議に思うことがあります。その最たるものが、普通の田畑の畦で見られるスベリヒユとヒガンバナが欠落していることです。

植物には当然季節性があります。例えばスベリヒユは夏季が全盛期ですが、一般的には春から秋まで、その姿を見ることができます。また、ヒガンバナは、花は秋しか見られませんが、球根は通年存在しています。ですから、調査がいつ行われたとしても、見逃すことはありませんので、両種ともに「御田」には生育していないことになります。

では、まずスベリヒユ(写真①)から紹介します。この草は典型的な夏雑草で、茎や葉に水分を蓄える多肉植物です。夏の炎天下で他の植物が枯れあがっても平気ですし、除草して積んでおくと、半分くらいはまた根を伸ばして生き返るくらいです。この植物は、ポーチュラカ(スベリヒユ)属に属していますが、このグループには夏花壇でお馴染みのポーチュラカ(ハナスベリヒユ)(写真②)やマツバボタンが入っています。

本誌九号で紹介したハコベの次に若鶏の餌になるのがスベリヒユで、初夏の若鶏には欠かせないものですが、昔は田圃の畦にいくらでも生えていました。

ちなみに、名前の由来は、この草が多肉質で茎葉が平滑なため、上から踏みつけると滑ってしまうことからと言われています。

また、祖母は色や形状から、この草をタコグサ(蛸草)と呼んでいました。さらに、母は食糧難のとき、ハコベと同様に食したことがあると言っていました。このように住吉近辺で普通に見られる本種が、「御田」に姿を見せないのは不思議なことと言えるでしょう。

次に、秋の代表的な花であるヒガンバナに移ろうと思います。

ヒガンバナ(マンジュシャゲ)は、日本人なら誰でも知っている雑草です(写真③)。なぜかと言えば、この草が有名な毒草で、親が子供にこの花の取扱いについて注意していましたので、植物に興味のない人でも名前だけは知っていることでしょう。

このヒガンバナは、丁度、秋のお彼岸に合わせたように開花するため、この名が付きました。全国的に分布しており、日本原産ではありませんが、どこにでも見られるのは、球根を作る能力が高いことと、日本人が意図的に増やしたためと言われています。

ヒガンバナは、中国南部が原産で、日本には稲作文化と共に入ってきたとか、照葉樹林文化の一員として入ってきたなどと言われます。本種は、リコリス(ヒガンバナ)属に属し、欧米ではスパイダーリリーと呼ばれて園芸種となっています。日本では色彩が強すぎるためか、園芸化はされませんでした。有毒植物ですが、水に晒すと毒が抜けて食料になるため、救荒作物でもあります。

さらに、その毒性から、貯蔵米を荒らすネズミの殺鼠剤として利用されたり、畦に穴をあけるモグラやネズミ類を忌避させる目的で畦に植えたと言われます。(写真④)

このように、稲作と強く結びついていたヒガンバナが、稲作文化を象徴する「御田」にどうして欠落しているのか、不思議でなりません。(寺田孝重)

写真①スベリヒユの草姿:このように多肉質の茎葉に黄色の小花をつけます。
写真①スベリヒユの草姿:このように多肉質の茎葉に黄色の小花をつけます。

写真②ハナスベリヒユ(ポーチュラカ)の花:茎葉はスベリヒユに酷似しているが、花は大きく花色も多彩です。
写真②ハナスベリヒユ(ポーチュラカ)の花:茎葉はスベリヒユに酷似しているが、花は大きく花色も多彩です。

写真③ヒガンバナの花:日本ではあまり好まれませんが、欧米諸国では他のリコリス属とともに園芸種となっています。
写真③ヒガンバナの花:日本ではあまり好まれませんが、欧米諸国では他のリコリス属とともに園芸種となっています。

写真④水田畦畔のヒガンバナ:秋の風物詩となっている畦に咲くヒガンバナ。
写真④水田畦畔のヒガンバナ:秋の風物詩となっている畦に咲くヒガンバナ。

 

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