文字サイズ

背景色

大阪府営5公園:久宝寺緑地 住之江 住吉 長野 石川河川公園の情報サイト


住吉公園

 2022年8月19日(金) 20:01 JST

「住吉公園歴史探訪」第14号

  • 2022年3月10日(木) 13:58 JST

住吉公園150年記念事業
「住吉公園歴史探訪」第14号
歴史探訪 第14号
発行日:2022年3月1日
(季刊:3月・6月・9月・12月発行)

明治6年に開設された大阪府営住吉公園は、2023年に開設150年を迎えます。「住吉公園 歴史探訪」では、住吉公園150年記念事業として住吉公園の歴史をたどり、開設当初からどのように利用され、どのような変遷を遂げてきたか、悠久の歴史に想いを馳せてみたいと思います。

住吉公園の原風景を彩る生物たち

―住吉の松Ⅱ なにわやの笠松―

現在の住吉公園や住吉大社境内には、多くの松(クロマツ)が生育しています。

かつて、この辺りが万葉集で『あられの松原』と詠まれた頃には、一体どのぐらい多くの松が生育していたのでしょうか。今はもうありませんが、いくつかの銘松と呼ばれる立派な松がありました。今回は下図のように、二代歌川広重が『諸国名所百景』に描き、近代まで生存した『なにわやの笠松』をとりあげたいと思います。

『笠松』とは、背が低く、四方八方に枝を広げ、まるで笠を開いたような形状になったものをいいます。クロマツを石付にした盆栽で笠状になっているものがありますが、これの巨大なものと言えます。

住吉大社所蔵の『住吉松葉大記』によりますと、中世以来、住吉大社の正印殿に『笠松』と呼ばれる銘松があり、豊臣秀吉なども見学したと書かれています。しかし、『摂陽奇観』によれば、この松は享保年間(1716~36)に枯死したようで、これに替わって難波屋の『笠松』が有名になっていったようです。

二面の図1のように、この松は正印殿の松が枯死した直後にあたる元文3(1738)年にはすでに計測された記録があり、当時から有名になりつつあったと思われます。ですから、この地域には少なくとも二本の雄大な『笠松』が存在していました。

これらのことから、住吉大社などに関係する造園家の中には、『笠松』を形成する技術があったことが分かります。特に二面図3の形状からは、松の石付盆栽を彷彿とさせるものがあります。

松は庭園木としてよく用いられますが、美しい状態に保つのが難しい植物で、「みどり摘み」や「みがき」などの管理技術を駆使する必要があることから、玄人でないと管理ができません。図2を見ると、美しい樹形であることから、この松が十分に管理されていることが分かります。

さらに、このような銘松が仕立てられるのに二~三百年かかり、寿命が五~六百年と考えますと、正印殿の笠松は、鎌倉期に芽生え、住吉大社が争乱の舞台となった南北朝期や、信長の石山攻め、家康の大坂城攻めを潜り抜け、秀吉の頃にその大きさや美しさが頂点を迎えたと考えられます。また安立町の難波屋の笠松は、室町中期に芽生え、昭和23(1946)年に枯死したものと考えられます。この松については、各種の版画や写真が残っていますので、その主なものを二面図1から図5に示しています。

難波屋の笠松は図2のように、江戸後期には見物客を集めるほど安立町の名物となっており、「なんば屋の松は低いが餅は高い」という言葉が現在も残っています。このようなことから、平成8(1996)年に「安立笠松会」が結成され、15(2003)年には安立小学校の校庭に後継木が植樹されるなど(二面写真1)、跡継ぎを育生する運動が地元の安立町で展開されています。(寺田孝重)

⑴『住吉松葉大記』(重要文化財建造物附指定)
住吉大社所蔵。元禄・宝永年間(1688~1711)、住吉社人の梅園惟朝の編著。住吉に関する神事・神饌・神宝・建造物・氏族・地誌など各部門にわたり、中世の古記録も用いて考証しており、中世・近世の住吉を知るための貴重な史料である。大阪市史史料として刊行。

⑵『摂陽奇観』
江戸後期の浮世絵師・作家の浜松歌国による地誌。天保4年(1833)成立。近世大坂の名所旧跡をはじめ、元和元年(1615)から天保4年(1833)までの大坂の出来事を記す。『浪速叢書』所収。

諸国名所百景 泉州堺なにわやの松 歌川広重(二代)画
諸国名所百景 泉州堺なにわやの松 歌川広重(二代)画
『諸国名所百景』は、安政6(1859)年に版行された浮世絵集で、この中に「泉州堺なにわやの松」があります。本来は、摂州住吉郡安立町に存在したはずの「なにわ屋の笠松」が描かれています。堺に近接している地域のため、誤ったものと思われます。 堺市立中央図書館所蔵

2万分の1の地形図 大阪西南部安立町付近 1909年
2万分の1の地形図 大阪西南部安立町付近 1909年
笠松の位置(▲)は、現在の阪堺電車細井川電停すぐ西
■近世以前に笠松があった正印殿(住吉神主・津守邸)

 

図1 元文3(1738)年計測の住吉難波屋の松の図
図1 元文3(1738)年計測の住吉難波屋の松の図
松高サ一丈、東西拾五間半、南北拾八間計リ、栳柱不知其数
(※高さ1丈=約3.03m、東西15間半=約28.18m、南北18間=役32.73m)
「誰にとか いけの心も おをふらむ そこにやとれる 松の千とせを」
〔元ハ元文三戊午春三月之間数也〕〔嘉永三庚亥年再板〕 住吉大社所蔵

図2 安政6(1859)年の「住吉なにわや」の松の図
図2 安政6(1859)年の「住吉なにわや」の松の図
松高サ壱丈、東西九間半、南北十間計リ、栳柱不知其数
(※高さ1丈=約3.03m、東西9間半=約17.27m、南北10間=役18.18m)
「浪花津の ほそへのかわを おをふらん こゝにやとりし 松は幾千代」
〔安政六未年再板〕 住吉大社所蔵

図3 寛政6(1794)年の『住吉名勝図会』に見られる「なにはやの松」
図3 寛政6(1794)年の『住吉名勝図会』に見られる「なにはやの松」
「なにはやの松/安立町の北にあり。そのかたち菅笠に似て、枝をたる事、四方十有余間にあまれり。往来の旅人客に立寄て見ものとす。」
住吉大社所蔵

図4 明治36(1903)年『住吉神社及公園之真景』(部分拡大)に
	見られる「笠松」の図
図4 明治36(1903)年『住吉神社及公園之真景』(部分拡大)に見られる「笠松」の図
『東成郡誌』にも述べられているように、大小二本の松が描かれています。
本誌第8号に掲載 摂河泉文庫所蔵

図5 大正15(1926)年『堺住吉(附近)名勝案内』難波屋笠松に見られる枯死(昭和23(1948)年)直前の「笠松」の姿
図5 大正15(1926)年『堺住吉(附近)名勝案内』難波屋笠松に見られる枯死(昭和23(1948)年)直前の「笠松」の姿
「南海電車阪堺線細井川停留所の西南1丁目の處に其狀怡も笠をふせたるが如き矮幹四方に瀰蔓(はびこ)して地を掩(おお)はんとする大小の二株の松あり難波屋の笠松と稱(しょう)す」
本誌第10号に掲載

写真1 現在の「笠松」後継木 なにわやの笠松 安立小学校校庭
写真1 現在の「笠松」後継木 なにわやの笠松 安立小学校校庭
「阪堺線細井川電停上りホームの西側にあった難波屋の笠松は、住吉の名物の一つで、西側の玄関は紀州街道に面しており多くの人々が訪れた。『摂津名所図絵』によると、株の高さ七尺(2.12m)と低く東西十五間余(27m)、南北十三間余(23.4m)に枝を張り、笠のように四方に繁茂して支柱は数え難いほど多くあったという。」
財団法人住吉名勝保存会・安立笠松会

住吉公園の児童遊戯場2

~遊戯場が現在の場所へ

1.大正七・八年の改良工事

図1 中央躑躅山附近の芝生広場
図1 中央躑躅山附近の芝生広場

前回の第13号では、運動器(遊具)が大正初期に初めて設置されたところまでを説明しました。場所は、現在の管理事務所とテニスコートの中間あたりになります。その後、大正7(1918)年から8(1919)年にかけて、公園の中央部にあった料亭や茶店を公園の端や外に移転させ、公園施設の改良工事が行われました。この時の大改修で運動器がどのようになったかを説明したいと思います。

大正9(1920)年5月の大阪府住吉公園改良工事竣工報告書(1)の『第五項 築山盛土』では、「中央舊躑躅山きゅうつつじやまに接して高さ四尺の小丘地二個所を設け同じく芝を張り付け躑躅類つつじを散植して此處ここ小躑躅山しょうつつじやまを現出せしめ一つは花紅草緑かこうそうりょく(ここではツツジの赤花と芝生の緑を表している、語源は「花紅柳緑」)を對照たいしょうせしめて景趣の變化へんかはかりしと共に小兒しょうじ或は家族の散策、遊戯の場とし或は辨當喫食べんとうきっしょくの場たらしめたり」と記されています(図1参照)。元々あったツツジ山の東側と南側の2カ所に、芝生を張りツツジを植栽した小さな丘を設け、そのふもとに芝生の運動場を配置し、春には赤いツツジの花と芝生の緑が楽しめ、子どもを連れて散策や遊戯、弁当などの飲食ができるようにしたことが説明されており、ツツジ山周辺に遊戯場があったことが分かります。この場所は、図2の築山花園あたりと思われます。ただし、この平面図には遊戯場の記載はなく、これだけでは何処に、どの様な遊具が設置されたのかはわかりません。

図2 大正初期の住吉公園
図2 大正初期の住吉公園

遊具の内容については、昭和5(1930)年に発行された大屋霊城著『計画・設計・施工 公園及び運動場』に収録されている住吉公園の説明に「体育的施設は、庭球場2箇所、運動場2箇所(内1箇所は200mトラック)、芝生3箇所、鉄棒2基、雲梯3基、ブランコ8基、スベリ台2基」とあり、前後の文脈から大正7(1918)年からの改修工事を説明したものと思われます。

ここから、鉄棒、雲梯、ブランコ、スベリ台が設置されたことがわかります。また、この時期においても遊具ではなく体育的施設として位置づけられています。

2.児童遊園へ

令和2(2020)年に住吉公園の古い資料が見つかり、その中に『住吉公園と住江公園とを結ぶ連絡道路』との表題のパンフレットがありました。パンフレットには鉛筆書きで「昭和6年」との記載があり、担当者が記憶を留めるためにメモ書きしたものと思われます。

このパンフレットの住吉公園平面図には児童遊園が潮掛道北側の中央に記載されており、昭和六年頃の遊戯場は現在の位置にあったことがわかります。

図3 昭和6年の住吉公園 児童遊園の文字がみられる。
図3 昭和6年の住吉公園 児童遊園の文字がみられる。

表1は住吉公園の工事記録(大正8年~昭和5年)から遊具関係を抜粋したものです。この記録には「廻旋塔梯子シーソー、ブランコ、四方釣ブランコ、シーソー、スベリ台、遊動圓木(動物型)、ようらん揺籃」の記載があり、また、工事記録末尾の「ヘ.特有ナル施設」の項目に、「本公園ハ小兒及ビ学童ノ利用最モ多キヲ以テ特ニ幼年兒童ノ爲メニ約四百坪ヲ劃シテ多ク動物型運動器具ヲ設置スルト共ニ『マヽゴトノ家』(高サ六尺五寸建坪五合五勺)五個ヲ備ヘテ女兒ノ利用ヲ大ナラシメルコトニ努メ周囲ニ柵ヲ廻ラシテ大人ノ妨害スルヲ避ケ遊戯ヲ安全ナラシメタリ。」とあり、400坪(1,320m2)の広さに多様な遊具が設置されていたことが記されています。

表1 大正9年から昭和5年までの工事記録から遊具関係を抜粋
表1 大正9年から昭和5年までの工事記録から遊具関係を抜粋

工事記録には大正11年度に「運動器具建設工事」と「運動場新設工事」が行われており、備考欄には「児童遊園内に一方スベリ台一基」と「ブランコを両スベリ台に改良」と説明されています。また、昭和5年度の覧をみると「運動場柵建設」、「運動場修繕工事」が行われています。大正7、8年の大改修で運動場が2箇所、芝生の運動場が作られ、その後の昭和6(1931)年の平面図には新たな運動場は見当たらないことから、大正11年度の運動場新設は児童遊園のことで、昭和5年度の運動場柵建設とあわせて考えますと、大正11年度には現在の場所に児童遊園が建設され、昭和5(1930)年には児童の安全のため柵を設置したことが読み取れ、工事記録末尾の説明文と一致することがわかります。

ところで、昭和6(1931)年のパンフレットにある公園の平面図では児童遊園と名付けられていますが、工事記録では運動場になっています。また、遊具は動物型運動器具と記され、ここでも運動器具としてとらえられていたことがわかります。

3.国道16号開通後の児童遊園

図4 国道16号開通後の児童遊戯場
図4 国道16号開通後の児童遊戯場

昭和13(1938)年の国道整備に合わせ、公園内の施設は規模と位置が大きく変更されました。児童遊園は壁泉が設置されたため東側に移設し、規模は少し大きくなっています。遊具の設置内容については、残念ながら資料がないため詳細はわかりません。

ところで、大正初めには運動器、大正8年度から昭和五年度の工事記録では運動器具という名称が使われています。ただ、設置されている場所については、大正中期では遊戯の場、昭和6(1931)年の図面では児童遊園として載っていることから、運動器具は遊器具としてとらえられていたと思われます。

フランスの哲学者であるロジェ・カイヨワ(2)の有名な著書『遊びと人間』の中で定義した遊びの活動には、強制されない「自由な活動」、一定の空間や時間などに限定され「分離した活動」、自由に遊ぶため結果が決まらない「不確定の活動」、決められた範囲内での活動による「非生産的な活動」、決められた範囲内だけに適用する「ルールのある活動」、現実世界とは分離した「虚構的活動」の6つがあると述べています。  公園はロジェ・カイヨワが定義した遊びの活動の場そのものであり、公園に運動器具が設置され、子どもたちの自由な活動、分離した活動など、この6つの活動に包まれたとき、名称は運動器具でも、実態は遊具であったと考えられます。設置者の意向が青少年の体力増強にあったとしても、公園という空間では運動器具は遊具になるのです。設置当初から、運動器具は子どもたちにとっては遊具であったと思われます

4.まとめ

大正初めに、住吉公園で初めて遊戯場らしきものとして花木園の近くに運動器が設置されました。その後、大正11(1922)年に潮掛道北側に移り、国道16号(現、国道26号)の整備にともない、壁泉の東側に規模を大きくして移設されました。当時は児童遊戯場としての認識はあったものの、工事記録に記された「運動器具」の名称からも、体力増進の場としての機能が根強く残っていたことがわかります。

次号では、戦時中の遊戯場の荒廃、戦後の復興について述べたいと思います。(荒木美喜男)

(1)大阪府住吉公園改良工事竣工報告書 第5項 築山盛土(P8)
大正七年から八年にかけて住吉公園は大規模な改修工事を実施。その内容をまとめたもの。

(2)ロジェ・カイヨワ(Roger Caillois)
一九一三年三月三日〜一九七八年十二月二十一日
フランスの文芸批評家、社会学者、哲学者。
有名な著書に「遊びと人間」(Les jeux et les hommes)がある。ヨハン・ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」に触発され、「遊び」を理論的、体系的にまとめたもの。

図5 廻旋塔梯子シーソー
図5 廻旋塔梯子シーソー

図6 四方釣ブランコ
図6 四方釣ブランコ(安全ブランコ)

図7 遊動圓(円)木
図7 遊動圓(円)木

【参考】
 図5~7の遊具は、表1の記録から筆者が想像して作成した図です。大正から昭和初期にかけてこのような遊具が設置されていたと思われます。これらの遊具は国土交通省の「都市公園における遊具の安全確保に関する指針」が出されると次第に消えていきました。

 

発行:

都市公園住吉公園指定管理共同体
(株式会社美交工業・NPO法人釜ヶ崎支援機構)

お問い合わせ:

住吉公園管理事務所 電話 06-6671-2292

編集委員:

水内俊雄(代表、大阪市立大学)、小出英詞(住吉大社)
寺田孝重(苅田土地改良記念コミュニティ振興財団)
繁村誠人(NPO法人 国際造園研究センター)
櫻田和也(NPO法人 remo記録と表現とメディアのための組織)
荒木美喜男(大阪府庁公園OB)