「住吉公園歴史探訪」第27号

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住吉公園

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「住吉公園歴史探訪」第27号

  • 2026年 6月9日(火) 16:11 JST

住吉公園150年記念事業
「住吉公園歴史探訪」第27号

歴史探訪 第27号タイトル画像
発行日:2026年6月1日
(季刊:3月・6月・9月・12月発行)

明治6年に開設して150周年を迎えた大阪府営住吉公園の歴史探訪誌として、2018年12月から季刊で第16号まで発刊してまいりました。2023年7月刊の『住吉公園と住吉さん』編纂による一時休止後、2023年12月より再刊しました。ぜひとも住吉公園、大社界隈の悠久の歴史地理をご堪能ください。

住吉公園の標柱と開拓者
小山卯之助

 住吉公園を東西に走る汐掛道の、東入口北脇および西入口南脇には、二基の大きな石製標柱が立っており、正面に「住吉公園」と刻まれています。

その背面(裏側)には「明治三十三年五月十日建之」「愛石環享書」「発起人/小山卯之助 田中菊松 一川友七」とあります。ここでは発起人の筆頭者である小山卯之助について紹介します。

公園初期の植栽計画

明治三十五年(一九〇二)十二月刊の『日本之勝景 一名帝国美観』(小泉幾太郎編、日本地史編纂所)には、住吉公園の説明の中に次のような記事があります。

抑同公園は古来一帯の松林に過ぎざりしが、明治十八年長峡町の人、小山卯之助氏松樹壱万本を移植し、荒蕪を開墾して六百七拾坪の地を穿ち六百根の蓮を植ゆる等尤も経営に力め大に風趣を加へたり、且つ氏は学校生徒の運動会等には自費を以て茶菓を供する等、同園の為め将た公共の為めにするもの至れり尽せりといふ、同園が今日の隆盛を見るに至りたるもの実に小山氏の偉効に帰せざるべからざるなり。

住吉公園の初期に砂持勧進があったことは本紙第1号で紹介したとおりですが、これによれば、その後の整備に尽力したのが小山卯之助であったこと、明治十八年(一八八五)にマツ一万本、ハス六〇〇本を移植したこと、さらに園内で行われた学校生徒の運動会に際し自費で茶菓を提供したことなどの功績が特筆されています。

絵葉書 住吉公園
絵葉書 住吉公園

公園に多数のマツが植えられたことは、住吉大社文書『明治十九年分内務省大阪府其他往復書類』からも確認できます。それによると、明治十九年(一八八六)三月十六日、園内に植栽するためのマツの苗木を神社境内に運搬する件について、大阪府庶務課より社務所に依頼がありました。

汐掛道の入口に立つ標柱(東口)
汐掛道の入口に立つ標柱(東口)
汐掛道の入口に立つ標柱(西口)
汐掛道の入口に立つ標柱(西口)
標柱の背面と、標柱の背面を拡大表示
標柱の背面と、標柱の背面を拡大表示

住吉公園地内江栽植ノ為メ、今般奈良地ヨリ外国種松苗弐百本斗、貴所ヘ向ケ運搬可致筈ニ付、到達ノ上ハ、日光ヲ受ケタル場所ニ御預リ置候旨、即日御通報ヲ煩シ度、予メ此段及御依頼候也
 明治十九年三月十六日
       大阪府庶務課(印)
 住吉神社社務所御中

そして同二十一日、大阪府勧業課の照会によって境内へ「海岸松」(クロマツの意か)の苗木二〇〇本が運搬されるので、神社で預かることについて、奈良郡役所の奈良山林苗圃監督より社務所に連絡がありました。

本府勧業課ヨリ、本月十六日附、勧井第一四七号ヲ以テ、海岸松弐百本御社ヘ運送ニテ取斗御願、御照会ニ拠リ到本為別仕候見筈定相参、到達ノ上ハ御預候様□御回送相願度、此段申上候也    明治十九年三月廿一日
       奈良山林苗圃監督
        細田平三郎(印)
住吉神社々務所御中
    証
一、海岸松  弐百本

同二十三日には住吉大社から奈良郡役所あてに、これを預かった旨の返信の書面があります。

右、大阪府勧業課ヨリ照会ニ依リ、御差達相成分、正ニ預リ置候也
   明治十九年三月廿三日         住吉神社々務所
奈良山林苗圃監督   細田平三郎殿

同二十五日、苗木受取のために大阪府庶務課より井関松五郎を差向けることの通知なども見られます。

公園地内松苗木植付ノ為、井関松五郎ナル者差向候間、及御預ケ置候苗木弐百本、同人ヘ御渡有之度、此段申進候也
   明治十九年三月廿五日          大阪府庶務課(印)
住吉神社社務所御中

このような記録から、初期の公園はマツの名所の保全につとめていたことが分かります。

公園草創期の記憶

卯之助と住吉公園の逸話として、他にも大正七年(一九一四)七月二十五日発行の『大阪経済雑誌』第二巻(創刊二十二周年記念準備号)に掲載された、永江為政による「蝉しぐれ日記」に興味深い記述があります。(※七月三日記事)

▲予等一行の調査隊は、此日先づ住吉公園内の小山楼にママ取つた ▲此楼の主人は住吉公園の開拓者にして現に同村の助役たり、往時此辺りに墨の江と称する沼地にして、芦艸繁茂し、一見凄愴荒蕪の地、明治六年開拓の当時、其一の洲と、二の洲とで捕獲した蛇だけが、四斗樽に何ばい有つたか分らなかつたなどいふ、恐ろしい話を聞いて、覚へず身慄ひをした

ここでは、小山楼の主人(小山卯之助)から聞いた話として、草創期の公園周辺は沼地が多くあり、一の洲・二の洲(本紙第7号参照)などで大量のヘビを捕獲したと語られています。誇張も含まれている可能性はありますが、関係者ならではの貴重な証言といえます。

卯之助の事績について

改めて小山卯之助の事績にも触れます。彼は幕末から明治・大正期にかけて活躍した人物で、その名は住吉大社の石燈籠にも見られます。

この石燈籠は、境内北西(乾参道)の、電車道に面した入口の玉垣内に立つ「さんけい道」と刻まれた道標を兼ねた四角柱型の常夜燈で、慶応二年(一八六六)三月、住吉新家(現在の住吉区東粉浜)にあった土佐藩住吉陣屋の関係者により建立され、後に現在地へ移設したものです。

その右面(北側)には、建立の世話人として岩田平七(地元の郡戸長兼取締)、土堤内清五郎(土佐藩大部家頭、後にフランス水兵を殺傷して切腹した堺事件の土佐藩十一烈士を弔った人物)らとともに、小山卯之助の名が刻まれています。

明治十六年(一八八三)、川﨑源太郎による『住吉堺名所并豪商案内記』には、旧社領新家(現在の住吉区長峡町)で商いをしていた「小山店」「小山宇之助」(卯之助の誤記とみられる)が記されており、幕末維新期を通じて、住吉大社の門前町で活発に商業活動を行なっていたことがうかがえます。

その後は、住吉公園内の小山楼を営むかたわら、墨江村の村会議員や助役を歴任し、逓信事業にも尽力、旧住吉郵便局(明治三十三年開設)の初代局長を務めました。なお、旧住吉郵便局は現在の住之江郵便局の前身にあたります。(小出英詞)

 

枚岡の梅林

本紙第26号の「枚岡公園 大屋霊城が手掛けた最後の公園」で少し述べましたが、官幣大社枚岡神社は、昭和二年から枚岡神社境内林整備計画に基づき整備を行いました。その一部として枚岡梅林の改修工事が行われています。そして、府営枚岡公園誕生を期して梅林の管理を大阪府に委嘱することになり、昭和十三年(一九三八)十二月二十三日に官幣大社枚岡神社と大阪府で覚書を交わして、実質的に梅林が枚岡公園の一部となりました。今回は、梅林の歴史と近年の様子について説明します。

枚岡梅林の始まり

1.枚岡市史に語られる枚岡梅園

枚岡市史では「明治九年、地元有志が枚岡神社に土地を寄付し、従来の神社所有地と合わせて三段六畝十二歩(約参千六百㎡)の地に梅樹を植え梅園を造成」とあり、これが梅林の始まりです。地元有志とは、この時期に組織された枚岡教会講社と思われますが、その後の維持管理については特に記載されていません。次に、「明治十四年、この梅林の拡張が愛敬社なる頼母子講たのもしこうによりはかられた」と記述されています。愛敬社は、枚岡教会講社を組織した池島村の巽茂作と高安郡万願寺村の久保田真吾の両名を社長とし、近郷の豪農六十名によって組織されたもので、初会掛金一人五十円を徴収し、集金二千八百円のうち千五百円を持って、明治九年(一八七六)枚岡教会講社によってつくられた旧梅林の南方、※1神護寺山枚岡寺跡地九段十一歩(八千九百六十二㎡)を購入、新梅園を造成するとともに、鳥居・神官屋敷を買復し、さらに神山(枚岡山)に桜を植えるのに充てています。梅園の管理には梅実の有益をもって充て、余ったときは永年、神社の補修修繕に備えるとしており、梅園の拡張と維持管理を愛敬社という豪農による頼母子講が行っていたことが市史に記載されています。しかし同十四年に実施された※2松方デフレ財政により米価は下落し、地主は大きな打撃を受け、また十八年の淀川の堤防決壊により、北河内、中河内、大阪市を襲った大洪水で中河内の地主は窮地に陥ることになります。このため愛敬社の会員の中には、掛金を滞納し、あるいは講会の開催の減少・休会を主張するものなどが出て、十八年十月以降は事実上講会が開けなくなり、明治二十年(一八八七)に愛敬社は事実上崩壊してしまいます。愛敬社の崩壊後、愛敬社の発起人である若江郡小坂村の山沢保太郎、池島村の巽茂作、高安郡の久保田信吾と枚岡神社宮司代理禰宜の吉田義広は、今後の梅園経営について協議し、「新旧梅園の取り扱いに関する誓約書」を明治二十二年(一八八九)九月五日に取り交わし、同三十年まで梅園の維持管理を行うことになります。その後の維持管理について市史には、「明治末年から大正初年に組織された枚岡神社保勝会はもっぱら寄付金によって運営されており、神苑の整備だけを行うようになる。」と記され、梅園の管理者は明確ではありません。

2.枚岡梅林の石碑

梅林の中に、経緯を記した二つの石碑が現存しています。一つは枚岡神社によるもの、他方は神苑保勝会によるもので、両方とも昭和三年(一九二八)五月祥日に設置されたものです。神社により設置された石碑については前号に記載した通りですが、神苑保勝会設置の石碑について、今号でご紹介します。石碑の裏面(写真①)には次のように記載されています。

枚岡神社梅園ハ久保田美英巽茂治山澤安太郎等ガ愛敬社ヲ組織スルニ開始シ爾來幾多ノ星霜ヲ經過スルマゝ苑ノ内外甚シク荒涼ノ状ヲ呈ス於是乎天野彌三郎氏ハ大阪電気軌道株式会社ト相提携シテ奨弘会名ノ下ニ貳千圓ノ資金ヲ投ジ苑ノ内外ヲ整理スルト共ニ其拡張ヲ図リシカバ枚岡梅苑ノ名遠近ニ響キ観梅者年ヲ遂フテ増加シ以テ今日ノ盛況ヲ見ルニ到ル蓋シ天野氏等ノ功労ニ待ツ事大ナリ仍テ今回神苑保勝会成立スルニ及ビ此碑ヲ建テゝ先輩諸氏ノ誠意ヲ表彰ス爾伝
  昭和三年五月祥日    神苑保勝會

ここでは、梅園が愛敬社から始まり、その後歳月の経過とともにはなはだしく荒れていたところ、天野彌三郎氏と大阪電気軌道株式会社が提携して、奨弘会の名の下で再整備したこと、神苑保勝会の成立を機会に石碑を建立し顕彰すること、を述べています。ここで分かることは、愛敬社及び久保田美英、巽茂治、山澤安太郎の三名による梅園の維持管理のあと、神苑保勝会へと移っていったことが読み取れます。

3.枚岡神社の梅園紹介より見る経緯

枚岡神社ホームページの梅園の項目には、以下の通り紹介されています。

「いつの頃からか定かではありませんが、神仏混合の時代に、神護寺・元古庵 平岡寺・法連庵・来迎寺・真堂寺といった宮寺が存在しましたが、明治に入り社寺改革による神仏分離で廃寺となり、その跡地に梅樹を少しずつ植えたのが枚岡梅林の始まりです。その後、氏子崇敬者の献木により規模が拡大し、維持運営を行う崇敬団体が組織されるようになりました。明治十四年「愛敬社」、明治十六年「換友社」、大正十二年「神苑奨弘会」、昭和二年「神苑保勝会」といった崇敬団体が、その役割を引継担ってきました。(略)」

神苑保勝会設置の石碑(表面)
神苑保勝会設置の石碑(表面)
写真① 神苑保勝会設置の石碑(裏面)
写真① 神苑保勝会設置の石碑(裏面)

ここから、「愛敬社」、「換友社」、「神苑奨弘会」、「神苑保勝会」と、維持管理を行う団体が梅園の再整備の都度組織されてきたことが推測できます。ここで「換友社」なる団体が出てきますが、枚岡市史、石碑にも記載されておらず、また、明治十六年(一八八三)は愛敬社が梅園を管理していた時期と重なることから、頼母子講とは別の梅園区域を管理していたか、頼母子講の下で実際の維持管理を行っていた団体とも考えられます。

枚岡梅林の成立経緯を、枚岡市史、梅林の石碑、枚岡神社のホームページから見てきましたが、特筆すべきは、当初管理していた「愛敬社」の取り組みにあると言えます。愛敬社についての記述として、枚岡神社資料に枚岡神社宮司秋良貞温から内務卿山田顕義に対して提出された「枚岡神社傍地買得神園開成伺」があります。この伺いには年月日が記載されていませんが、明治十四年中(六月以降)のものと考えることが出来ます。

「枚岡神社傍地買得神園開成伺」読み下し文
 本社の神嶽(みたけ)の麓は、社の南側に民有地が斜めに深く入り込んでおり、境内の体裁を大きく損なっています。この件については詳細を六月三十日付で伺い出た通り、地所を買い戻して「神園」にしたいと考えておりましたが、未だに神域の形勢が整わず、遺憾に思っておりました。

ところがこの度、有志の人々が奮起し、近隣の郡の豪農六十余名が「敬神愛国社」を結成しました。「頼母子(たのもし)年賦仕法」によって資本金を備え、神護寺山や平岡寺跡前の梅園、南方へと続く地所を買い取ったほか、一の鳥居の南側に並んで参拝の支障となっていた旧神主屋敷をも買い戻しました。

これにより、境内を完備し、神園を盛大に開園したいと考えております。大阪および近郷の有志から梅や桜数千本の寄附がありましたので、梅は買い取った地所へ植え付け、桜は元々の神山や参道脇などに(許可を得た上で)植え付け、神域の光景をさらに輝かせたいと存じます。

今後の花木の培養や園内の清掃・修繕費用については、「梅の実の収益」ですべてを賄い、余剰金は永年の修繕費として蓄える計画です。本件は特別な事情によるもので、当然ながら官費(公費)は一切仰がず、また神社の既存の予算も使いません。そのため、この土地は「別格附属の神園」と定め、有志結社(愛敬社)が永世にわたって維持・防護・管理を担い、地券(所有権)も社中の総代・社長を名代人とします。会計や積立金も同社中に委託し、社務所において厳密に取締まりたいと考え、絵図や資金計画の概略を添えて、ここに伺い立てます。

大軌参急 沿線案内:大軌電車(現・近鉄奈良線)沿線の佳景の2種類の鳥瞰図で、下図には梅林が枚岡神社とともに描きこまれています。左図は、具体の指示はないですが、それらしき梅林の様子が描かれ、生駒信貴の見事な山容の西麓に位置する状況が読み取れます。
大軌参急 沿線案内:大軌電車(現・近鉄奈良線)沿線の佳景の2種類の鳥瞰図で、下図には梅林が枚岡神社とともに描きこまれています。左図は、具体の指示はないですが、それらしき梅林の様子が描かれ、生駒信貴の見事な山容の西麓に位置する状況が読み取れます。
吉田初三郎鳥瞰図 大軌電車沿線案内 国際日本文化研究センター所蔵
吉田初三郎鳥瞰図 大軌電車沿線案内 国際日本文化研究センター所蔵

枚岡神社概略図(図①)に記載されています境内地沿革の②、④の一部は愛敬社が買収し、神社に寄付された土地になります。その詳細図を梅林の地番に示しています。緑色の部分が明治九年(一八七六)に、その後同十六年に買収した場所が黄色の部分になります。現在も梅林と民地が入り組んでいますが、梅林は神社本体と民地との緩衝になっていることがわかります。また、参道に面して立地している旧社務所の敷地(図②)が買収できたことは、神社の体裁を整えるうえで大きかったと思われます。

図① 枚岡神社概略図
図① 枚岡神社概略図
図② 梅林の地番
図② 梅林の地番

現在の梅林

このような経緯を辿った梅園ですが、公園の設置に合わせ、昭和十三年(一九三八)の枚岡神社からの委嘱により、梅林は枚岡公園の一施設として管理されてきました。ところが、平成二十七年(二〇一五)六月にウメ輪紋ウィルスの症状が出た木が発見され、農林水産省と大阪府で調査したところ、感染したウメが複数確認されました。このウィルスは平成二十三年に大阪府内で初めて吹田市で確認され、その後二十四年には泉佐野市、二十五年には池田市、柏原市、豊中市、富田林市、東大阪市、八尾市、河南町及び千早赤阪村に広がり、枚岡の梅林も感染は避けられない状態でした。(農水省発表)他の地域に感染する恐れがあるため、感染した地区の木は皆伐しなければならず、同二十九年一月にウメの木はすべて伐採されました。

枚岡梅林 ウイルス罹病からの復活
枚岡梅林 ウイルス罹病からの復活
枚岡梅林 梅樹一覧表 提供:枚岡神社
枚岡梅林 梅樹一覧表 提供:枚岡神社

ウィルスの潜伏期間が三年であることから、三年経過した令和元年一月に周辺の梅木調査を行ったところ、感染木は確認されませんでした。

そこで、令和元年度に梅林の園路舗装などの工事を大阪府が、令和二年度(令和三年三月)に梅の木の植樹を枚岡神社が行い、令和四年二月にリニューアルオープンしました。

現在の枚岡梅林(2024年2月14日撮影)提供:枚岡公園管理事務所
現在の枚岡梅林(2024年2月14日撮影)提供:枚岡公園管理事務所

新しい梅園には、十六品種、二百本のウメが植えられ、果樹として栽培される「実梅」が三種、鑑賞を目的として栽培される「花梅」が十三種あり、花色では、白色が八種、ピンク色が七種、紅色が一種植えられています。そして神社側から南側に向かって「早咲き」、「中咲き」、「遅咲き」と配植され、長期にわたり観梅が楽しめるよう配植されています。また、すそ野に「白梅」を多く植栽し、神津嶽側に向かって「ピンク」、「紅梅」を植栽することで、白から紅へと、花色が移ろうよう工夫されています。

メインの通路沿いには、「呉羽枝垂」、「藤牡丹枝垂」など枝垂梅が植栽され、白とピンクの二色が一本の木に咲く「思いのまま」を中央部に植栽し、景観のアクセントとしています。

今年(令和八年)で新しい梅樹の植栽から五年が経ちますが、五年後、十年後の姿が楽しみです。(荒木美喜男)

  • ※1 神護寺山枚岡寺跡地
    枚岡神社の元神宮寺で明治四年に廃寺となりました。
  • ※2 松方デフレ財政
    明治維新後、不換紙幣の発行や、西南戦争による戦費調達で生じたインフレーションを解消するため、大蔵卿松方正義が明治十四年より行った、デフレーション誘導の財政政策

発行:

都市公園住吉公園指定管理共同体
(株式会社美交工業・NPO法人釜ヶ崎支援機構)

お問い合わせ:

住吉公園管理事務所 電話 06-6671-2292

編集委員:

水内俊雄(代表、大阪公立大学)
小出英詞(住吉大社)
繁村誠人(NPO法人 国際造園研究センター)
櫻田和也(NPO法人 remo記録と表現とメディアのための組織)
荒木美喜男(大阪府庁公園OB)
繁村誠人(NPO法人 国際造園研究センター)