「住吉公園歴史探訪」第28号
- 2026年 9月1日(火) 10:00 JST
住吉公園150年記念事業
「住吉公園歴史探訪」第28号

発行日:2026年9月1日
(季刊:3月・6月・9月・12月発行)
明治6年に開設して150周年を迎えた大阪府営住吉公園の歴史探訪誌として、2018年12月から季刊で第16号まで発刊してまいりました。2023年7月刊の『住吉公園と住吉さん』編纂による一時休止後、2023年12月より再刊しました。ぜひとも住吉公園、大社界隈の悠久の歴史地理をご堪能ください。
住吉公園にある狛犬
公園東側入口に立つ一対の石造狛犬は、親しみを込めて「子持ち狛犬」と呼ばれています。狛犬は邪気を祓い、災厄の侵入を防ぎ、神前を守護する存在であり、鳥居とともに神社を象徴する代表的な工作物です。古くは「獅子」と呼ばれ、大陸から朝鮮半島を経て伝来したことから「高麗犬(こまいぬ)」、転じて「狛犬」と呼ぶようになりました。
この狛犬は、公園内を横断する汐掛道の遥か西方を見据えています。これは、もともと住吉大社の参道上に置かれ、背後にある神前を守護するための配置であったためで、住吉公園と住吉大社との深い関わりを今に伝えています。
狛犬は一対で、阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)からなり、正面から見て右側で大きく口を開けたものが阿形、左側で口を閉じているのが吽形です。
住吉公園にある狛犬は、阿形(南)が左前足の下に手毬(球)を置き、吽形(北)が右前足で子どもの頭を押さえています。とりわけ吽形が子どもを伴っていることから「子持ち狛犬」と呼ばれ、安産や子育て、家内安全、子孫繁栄を願う縁起物としても知られています。
球持ちと子持ちの雌雄一対からなる狛犬は、「宋風獅子(そうふうしし)」と呼ばれる古い形式の狛犬(獅子)です。その代表例として、福岡県の宗像大社に伝わる建仁1年(1201年)奉納の狛犬があり、重要文化財に指定されています。近隣では、堺市の開口神社に、文久3年(1863年)奉納のものが現存しています。
住吉公園にある狛犬は、もとは住吉大社の正面鳥居前に据えられていたものでした。その後、公園内へ移設され、後年になって狛犬の本体が新たに造り替えられています。この狛犬は、現在の姿になるまで幾度かの変遷を経ていますのでご紹介します。
左から1番目:旧阿形(球持ち)狛犬 正面(西) 2番目:同 左面(北・参道側)※球と右足が欠損 3番目:旧吽形(子持ち)狛犬 正面(西) 4番目:同 右面(南・参道側)※顔が欠損
左:吽形(子持ち)狛犬 右:阿形(球持ち)狛犬
狛犬の歴史的変遷
- 近世以前(年代不詳):正面鳥居付近に狛犬が存在していた。
- 嘉永2年(1849年)4月:旧来の狛犬に代えて、砂岩製の狛犬と御影石製の台座を再建した(松田屋伊兵衛・西村屋愛助建立、備前石工・喜三郎製作)。
- 昭和12年(1937年)4月:住吉公園の整備と住吉大社の風水害復旧工事に伴い、狛犬を住吉公園内に移設した。
- 昭和52年(1977年)10月:旧狛犬の劣化に伴い、新たな狛犬を試作し、旧台座の上に据え付けた(住吉名勝保存会建立、岡崎石匠・細川潔氏製作)。
台座の銘文
上記「二、」で造られた御影石製の台座は現在も使用されており、その銘文を確認することができます。
正面には文字は刻まれていませんが、参道側には屋号(商標)と寄進取次の神職「木村徳大夫」の名が、背面などには建立に関わる人名などが刻まれています。阿形には「伯州根雨」「松田屋伊兵衛」の名が見えます。根雨(現在の鳥取県日野郡日野町)は、山砂鉄を用いた「たたら製鉄」が盛んな土地で、「日野鉄」の産地として知られ、その鉄は北前船によって大坂へも運ばれていました。
一方、吽形に刻まれた「大坂薩摩堀」「西村屋愛助」は、江戸後期に活躍した大坂の鉄商人です。その後継者は、明治以降、名越愛助の名で海運業を営むほか、大阪瓦斯株式会社(現・大阪ガス株式会社)の設立発起人にも名を連ねています。これらの銘文によって、狛犬再建には鉄商人たちが関わったことがうかがえます。
旧阿形(球持ち)台座の銘文
- 左面(北)「取次 木村徳大夫」「〘上」
- 背面(東)「伯州根雨/松田屋伊兵衛」「備前/石工 喜三郎」
- 右面(南)「嘉永二己酉年 四月吉日再建」
旧吽形(子持ち)台座の銘文
- 右面(南)「〘吉」「取次 木村徳大夫」
- 背面(東)「大坂薩摩堀/西村屋愛助 」「備前/石工 喜三郎」
- 左面(北)「嘉永2己酉年 4月吉日再建」
新狛犬台座の銘文(両基とも同じ)
- 背面(東)「住吉名勝保存会」
上記「三、」は、昭和9年(1934年)の室戸台風で大きな被害を受けた住吉大社の復旧工事に伴うものです。同時期には、公園周辺の旧指定地から住吉新地への移転や、国道16号(現・国道26号)整備計画も進められており、狛犬の移設もこうした一連の整備計画によるものと考えられます。
なお、昭和12年の移設に際しては、元の場所にも同年新たに別の狛犬が建立されました(住吉大社正面鳥居の両脇に現存)。こちらは、山野長江(大正から昭和中期まで活躍した住吉大社彫刻匠)の原形をもとに、岡崎石匠の杉浦磯治郎が製作、玩具商の高松徳三郎によって建立されたもので、当時国内最大であった靖國神社の石造狛犬をしのぎ、日本一の大きさを誇った石造狛犬でした。
そして「四、」は現在のものです(写真③)。以前のものは砂岩製で劣化が著しかったため、住吉名勝保存会によって狛犬復活(再建)の計画が進められ、昭和52年(1977年)10月、旧台座の上に新たな狛犬が設置されました。現在の狛犬は岡崎石匠の細川潔氏の製作です。
この狛犬は、住吉大社と住吉公園の長い歴史的なつながりを今に伝える存在です。聖獣としての威厳と、球持ち・子持ちの愛らしさを併せ持つその姿は、まさに住吉公園の象徴といえるでしょう。公園を散策される際には、ぜひ足を止め、その歴史に想いを巡らせながら、二体それぞれの表情を味わっていただければ幸いです。
(小出英詞)
大阪府営のゴルフ場〜山田公園〜
大阪府に府営のゴルフ場があったのをご存じでしょうか。昭和10年(1935年)にオープンし、終戦直前に食糧増産のために芝生をはがされ、廃止となったゴルフ場で、三島郡山田村(現在の吹田市)の山田公園にありました。
山田公園は、前号で紹介した枚岡公園と同時期に建設され、大屋霊城が晩年に携わった公園です。この公園のゴルフコースの設計は、伊藤長蔵氏が担当しました[注1]。施設内容は、9ホールのゴルフコースに練習用コース1ヶ所、クラブハウスには休憩室、食堂、シャワー、風呂、ロッカー等を完備した本格的なゴルフ場で、園内には遊戯場、花壇や果樹園が併設され、親子連れも楽しめる公園として作られました。
山田公園ゴルフ場は、関西で初めて建設されたパブリックゴルフ場であり、料金はグリーンフィー1ラウンド50銭、貸しクラブ1セット(5本組)50銭、ロッカー使用料10銭と格安に設定されていました。当時の貨幣価値を現在と比較すると、約5,500倍。これで計算すると1ラウンドで2,750円になります。食堂のメニューはランチが5,500円、カレーは1,925円でした。少し高く感じますが、新大阪ホテルの経営とあればこれくらいはしたのでしょう。
当時の施設使用料と食堂メニュー
| 区分 | 項目 | 当時価格 |
|---|---|---|
| 施設使用料 | グリーンフィー(1ラウンド) | 0.50円 |
| 貸クラブ(1セット 5本組) | 0.50円 | |
| ロッカー使用料 | 0.10円 | |
| 食堂メニュー | ランチ | 1.00円 |
| カレー | 0.35円 | |
| 親子丼 | 0.35円 | |
| ビール | 0.47円 | |
| ソーダ水 | 0.15円 | |
| サイダー | 0.32円 |
関西におけるゴルフ場は、神戸ゴルフ倶楽部(明治36年・1903)、垂水ゴルフ倶楽部(大正9年・1920)、鳴尾ゴルフ倶楽部(大正9年・1920)と最初は兵庫県で始まり、その後、大阪府に初めてできたのは茨木カンツリー倶楽部で大正14年(1925)でした。これらは全て会員制のゴルフ場で、明治から大正までのパブリックのゴルフ場は、明治45年(1912)に長崎県営公園に建設された雲仙コースと、大正6年(1917)に箱根仙石原に建設された富士屋ホテル仙石ゴルフコースの二つだけでした。関西にはパブリックゴルフ場はなく、山田公園ゴルフ場は関西初のパブリックゴルフ場でした。大阪のサラリーマンによるゴルフ熱はこれから始まったと言えます。
弘済会と山田公園
山田公園建設の始まりは、財団法人弘済会の山田村への事業所移転によるものでした。弘済会は、明治42年(1909)7月に1万戸余りを焼失させた「北区大火」の後、大阪府知事、大阪市長、朝日新聞社長、毎日新聞社長の4名を発起人として、大正1年(1912)8月に財団法人として設立されました。貧民救済の目的で設立された大阪慈恵病院を引き継ぎ、大阪市内南生野町に病院・養老所・育児園を経営していました。昭和に入ると不景気で生活困窮者が増え、その収容力不足から拡張の必要に迫られていたところ、弘済会の理事であった有田邦敬京阪電鉄副社長の尽力で、山田村の地へ弘済会の事業所を移すことになります。
この土地は、新京阪電鉄が昭和3年(1928)11月に、山田村大字上、新田村大字上新田に亘って20万坪の土地を買い、千里山線を延長して第二の千里山住宅地を作る目的で買収した土地でした。しかし、不況の上、満洲事変という非常時を迎えて開発は進まず、事業計画を凍結した土地でした。昭和7年(1932)3月、弘済会は京阪より三島郡山田村大字山田上の土地63,000坪を買収し、本院、養老所、育児園の建設に着手。同9年(1934)4月上旬より収容者をここに移し、山田事業所を本院とし、生野を分院としました。(新京阪電鉄は、京阪のグループ会社として設立されましたが、昭和5年(1930)9月に京阪電鉄に吸収合併されています。)
大阪府には昭和4、5年頃よりゴルフ場のある公園建設の計画があり、土地取得に悩んでいたところ、弘済会の事業所の移転を契機に、京阪電気鉄道株式会社が持つ隣接の土地の活用に協力することになりました。その条件として、京阪電気鉄道株式会社は土地を無償で貸与すること、大阪府はここにパブリックゴルフ場、遊戯場、花壇や果樹園等を持つ公園を設置し、さらに千里山駅から公園まで巾員4メートルの府道を新設する、というものでした[注1]。
昭和8年(1933)の大阪府議会で山田公園建設の議案が提案され、議決を経て同地に地上権を設定し、総坪数87,265坪(当初計画)に、工費85,000円を以て同9年(1934)4月25日に起工、翌10年(1935)6月30日に竣工し、7月1日に山田公園として関西で最初のパブリックゴルフ場が開設しました。
千里山駅からゴルフ場、そして弘済院方面へのバス道路を推定で黄色線にて描画。 この地図の東側に日本万国博覧会の会場が描かれ、地図上には北大阪急行電鉄が万国博中央口に東進し、阪急千里線にも現在の山田駅はなく、万国博西口駅が描かれています。
山田村の変化
次に、弘済会と山田公園ができたことによる山田村の変化を見ていきます。
図④は昭和17年(1942)頃の山田公園の航空写真です。山田公園の場所を示した公園区域(白い点線)と、参考のため右側に並べて公園平面図を表示しました。右側の集落は山田村山田上です。山田村の西側にバイパス道路ができています。弘済会の移転により交通量が増えたために建設されたものと思われます。山田村へのバス路線は島田バスにより運行されており、大正15年(1926)10月、国鉄(現JR)吹田駅から山田村山田上までのバス営業の免許を受け、同年12月1日より営業を始めました。昭和8年(1933)には、弘済会山田事務所の建設に合わせ、山田村から新田村上新田への道が改修されたので、上新田までのバス路線の延長を申請して免許を受け、同9年11月14日からは吹田駅より弘済会前ゆきの系統を新設し運行しています。
また、公園の西側にも大阪府道ができているのが確認できます。この道路は、京阪電気鉄道株式会社から公園用地借地の条件となっていた道路です。写真では確認できませんが、千里山駅まで接続されており(図3)、京阪バス株式会社の乗合自動車が昭和9年(1934)8月7日、千里山駅から山田村弘済会までの4.6キロメートルのバス営業の免許を受け、千里山—下新田—牛毛首池—石川—弘済会のルートで運行しています。同10年7月1日山田公園ゴルフ場が開園しますとゴルフ客は皆このバスを利用するため、「ゴルフ場前」停留所を牛毛首池・石川間に新たに設けています。
大阪府山田公園の資料には、山田公園ゴルフ場までの交通案内が記されています。

主要駅からの交通料金
- 京阪電気鉄道 千里山駅下車(天六駅より20分、料金往復30銭)
- 京阪バス約15分(料金往復30銭)ゴルフ場前下車 徒歩5分
- 京阪電気鉄道 千里山駅下車 徒歩40分
- 東海道線 吹田駅より京阪バス約25分(料金往復40銭)徒歩10分(※昭和15年に京阪バスは島田バスを吸収合併)
弘済会事業所や、山田公園ゴルフ場が山田村にでき、利用客が増えたことにより、山田村の交通が非常に便利になりました[注2]。
ゴルフ場の利用状況
当時のゴルファーは、平日の利用者がほとんどなく、土曜日の午後や日曜日に集中していました[注3]。大阪府山田公園の資料に、昭和16年(1941年)の利用状況が記載されており、入場者数は2,836人で、戦争の影響が表れているようです。当時のゴルフの様子が次のように述べられています。
戦時下のゴルフ
戦前のゴルフは今日のように大衆化せずブルジョア階級の独占的スポーツのように誤解されていた。日支事変が発端となり、世界第2次大戦が勃発し戦時体制の強化とともに時局柄ゴルフバックを持って汽車や電車に乗り降りすることも自然に遠慮を要することになり、国民服姿で唐草模様の大風呂敷にクラブを包んでゴルフ場に行きキャデー無しのラウンドを余儀無くされた。昭和十八年終わり頃より、ゴルフ用語も日本語名に改正され、打球(ゴルフ)、打球競技規則(ゴルフルール)等すべて日本語規則となる。
いよいよ戦争が激化するに従い、ゴルフも外国の運動であり、との理由で世間の目が厳しく、次第にゴルフも出来なくなって開店休業状態となる。
関西初のパブリックゴルフ場としてスタートした山田公園ですが、戦争が激しくなるにつれて利用が困難となり、同18年になると鳴尾浜飛行場(現在の西宮市)建設のために芝生が剥がされ、芝生の跡地は食糧増産による甘藷(さつまいも)畑へと変わっていきました。
山田公園、その後の変貌
最後に山田公園のその後について見ていきます。このように、山田公園は終戦直前に食糧増産のために農作地となり、昭和20年12月に廃止・返還され、その後耕作者に払い下げられます。昭和32年頃からの高度経済成長により、都市近郊では宅地開発が盛んになります。大阪府では豊中市、吹田市にまたがる千里ニュータウンの開発が進められ、山田公園跡地は千里ニュータウンの津雲台の住宅地となり、今では昔の面影は残っていません。津雲台の中央部に配水場になっている高台がありますが、この部分は地形の関係からか山田公園区域から外れており、古い昔の地形のままだと思います。唯一、津雲台小学校の南側にある津雲公園(山田公園の区域内)の法面の林は、昔の面影を残している可能性があります。クラブハウスは津雲台小学校の校庭の南西の場所にありました。山田公園ゴルフ場クラブハウスの写真を見ると、当当時の地盤がもう少し高かったようです。この場所は高台で、北、東、南に展望が開け、ゴルフコースを一望できたと思います。今では津雲台にゴルフ場があったことを知る人はほとんどなく、時代の移り変わりを感じます。
(荒木美喜男)






